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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
     二 武田氏の文芸
      小浜文芸の背景
 若狭の守護武田氏の初代信栄は若くして死んだために文芸資料はほとんど見当たらないが、その弟信賢の時期になると、歌僧招月庵正徹の「草根集」に姿を現わす。文安四年(一四四七)から長禄三年(一四五九)正徹の死去するまで、信賢は洛東北白川の自邸で、毎年のように正月五日に続歌の会を、また毎月のように十八日には月次歌会を開き、ときには伊勢神宮・厳島社・北野天満宮への法楽歌会を催した。宝徳三年(一四五一)十二月、自邸の庭に加茂山の松を移植し住吉社を勧請したとき、松のそばに「山さと」を造り、歌人飛鳥井雅世(祐雅)からも和歌を詠んでもらった。この京都の町の中、つまり市中の山里は次代の桃山文化の特色で、豪華な大坂城の殿館・天守閣と侘びた山里丸の茶室へと連続するものであって、その早い時期の例として特筆される。一方信賢は武勇にも優れ、応仁の乱には細川勝元の東軍に属して勇名をはせ、のち「天下第一ノ武勇」と評されることになる(『若狭守護代記』)。
 文明三年(一四七一)信賢のあとを受けた弟の武田国信(宗勲)は、禅僧の雪嶺永瑾から「一代風流の老将」と称えられたが(「梅溪集」)、確かに連歌の准勅撰集『新撰菟玖波集』に宗勲法師として武家中第三位の一一句(付句九・発句二)が採られている。すでに故人である国信の句が多数収載されたのは、編者の宗祇・兼載らとの親交があったからでもあろう。
 宗祇は北白川の武田邸での百韻や千句の連歌会に臨み、文明十一年の秋には越前から帰京の途中に小浜に立寄り、国信邸の千句連歌会に、
   露に見よ青葉の山ぞはつしぐれ
と発句した(「老葉」)。兼載は在京中の国信の月次連歌会に列し(「園塵」一)、さらに鞍馬山の花の下の歌会にも同席した(「猪苗代兼載閑塵集」)。国信の交際は連歌師だけでなく歌人にも及び、文明九年八月に歌僧正広は越前から上洛の途中に小浜の国信邸十五夜の歌会に列したが(「松下集」一)、とりわけ国信と飛鳥井雅親(雅世の子)とは交流深く、南禅寺仙館院に禅僧の蘭坡景が国信を招待して張行した和漢聯句に雅親は発句した(「蜷川親元日記」文明十年二月十三日条、「和漢百韻」)。この会に列した者として宗祇・兼載・肖柏や、国信の弟で禅僧の月甫清光、武田家臣で京都雑掌の寺井賢仲の名もみえる。雅親はまた国信の招きで小浜に下向し、国信邸の歌会に、
   わが道の老の坂とふ人にけふ千とせの春のすゑもをしへつ
と詠んだ(「亜槐集」)。明らかに国信は雅親から和歌の指導を受けていたのであり、雅親の帰京のときには遠敷郡日笠まで見送り、再会を約して和歌を贈答したが、惜別の情まことに切なるものがあった(同前)。国信はまた雅親の弟雅康(二楽軒・宋世)とも親しく、長享元年(一四八七)将軍足利義尚の近江鈎の陣中での雅康の三十首続歌に寺井賢仲とともに詠歌した(内閣文庫「古文書」四)。 
 国信は武人であり、犬追物にも関心をもち、たびたび京都の武田馬場で興行し、有職故実に詳しい伊勢・小笠原・多賀氏らとの交流も知られる(『親元日記』など)。これらの犬追物に長男の信親もしばしば参加しているが、文明十七年に若くして死に、文芸資料はあまり見当たらない。とりあえず『新撰菟玖波集』に収載された国信の二句の発句のうちの一句と、「古筆短冊手鑑」に載る「関深雪」の題で詠んだ一首を記して、その文雅のあとを偲ぶことにしよう。
   春の木を千草にうつす花野哉    宗勲法師
   つきてふる雪にもやすく越行や道のまさしきあふ坂の関    宗勲
 後者の歌は、降り続き深く雪の積る逢坂の関所(大津市)でも、京都に逢う人がいるから、逢坂にふさわしい道をたやすく越していくのだというのであろう。まことに穏やかな公家風で、戦国武将に共通する和歌であった。



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