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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
     二 武田氏の文芸
      中央文化人の歎き
 大永六年(一五二六)も押し詰まった十二月二十六日に、若狭の小浜を発って上洛中の後瀬山城将武田元光は、若狭・近江国境の遠敷郡大杉に来たとき、この日が立春であることを思い出し、駒を留めてこう詠んだ。
   都にとけふ(今日)たつ春に我も又のどかなるべき旅の行くすゑ
二十九日に入京した元光は大永七年の新春を迎え、「梓弓もとたつ道にたちかへる春も都やはじめなるらん」とものし、合わせて二首を三条西実隆に示したのに対して、実隆は返歌した(『再昌草』大永七年正月条)。
 武田元光の上洛は足利将軍義晴を奉ずる細川高国に味方するためで、元光は「のどかなるべき旅の行くすゑ」と前途の安穏を願い、実隆も元光への返歌のなかで、「花の都の色をそへける」と待ちに待った武田軍の入洛を喜んだのである。ところが二月十三日早朝の桂川あたり、西七条川勝寺(西京極)の合戦において、およそ二〇〇〇人の武田軍は主力の粟屋党の一二人をはじめ一一〇余人が討死し、負傷者は「数を知らず」といった大敗北を喫した(『言継卿記』同日条)。
 前内大臣正二位の三条西実隆は、武田・細川衆の敗北を「言語道断の次第、此の間の儀、筆端に尽し難し」と述べ、翌十四日には「各、比叡坂本へ引退かるゝと云々、夢の如きなり」と記した(『実隆公記』同日条)。また前権中納言正二位の鷲尾隆康は、「公家の儀、いよいよ零落すべし、歎きても余りあるものなり」と記す(「二水記」同年二月十三日条)。さらにこのころ近江の矢嶋少林寺に旅の疲れを休めていた連歌師宗長は、「武田伊豆守、代々粉骨の勝利をうしなはれ」と痛歎したが(「宗長手記」)、敗北したにもかかわらず、「敗」とか「負」の字を使用していない。
 武家である武田元光や細川高国に対して、実隆や隆康ら公家、また連歌師の宗長は、まことに同情的である。実隆・隆康にせよ宗長にせよ、元光や高国が、公家や連歌師ひいては文化知識人の保護者であり、古典文化の擁護者であることを知っていた。言い換えると、戦国武将は伝統文化に憧れの念を抱き、自ら進んで文化推進の役割を果たしていたのである。そこで、こうした文芸展開のありさまを、小浜に咲いた武田氏の歴代とその周辺の文芸を中心にながめてみようと思う。



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