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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      むかしにかえる義景
 朝倉氏の最後の主義景は、小笠原流の弓法を学び、永禄四年春には三里浜南部の坂井郡棗荘大窪ノ浜で、供衆一万余人とされ見物その数を知らずといわれた犬追物を張行し、その検見(審判)を務めたという(同前)。武人の面影を伝える一例であるが、義景は早く三条西実隆の子である公条に『千載和歌集』の書写を所望して贈られており、歌道の人としても知られ、その治世二六年間には、永禄五年八月二十一日の「一乗谷曲水宴詩歌」、翌六年八月二十三日の「秋十五番歌合」、同十一年三月には前述した南陽寺観桜歌会の三つが知られる。なお永禄十一年五月、義景が足利義昭を朝倉館に迎え、猿楽の能で饗応した事実もある(本章三節一、五章三節四参照)。
 曲水宴詩歌は、水辺に座を定め、上流から盃を流し、自分の前を過ぎるまでに詩歌を作る遊びで、義景は一乗谷を訪れた大覚寺義俊(近衛尚通の子)らを饗応するため一乗脇坂尾(安波賀河原)に催したが、「早涼至」の題に義景の詠んだ、
   花ながすむかしをくみて山水の一葉をさそう秋のすゞしさ
をはじめ、詠歌二三人と漢詩作者七人による大宴会であった(『続群書類従』)。また「秋花」など三題による「秋十五番歌合」は、判者老法師(三条西公条か、また柳原資定か)、作者左右各五名の一〇名で、会場は一乗谷朝倉館であったろう。さらに南陽寺の遊宴に華麗なしだれ桜を観賞し詠歌した人びとは、足利義昭とその近臣に義景を加え、すべて二〇名であった(「朝倉始末記」)。
 義景の連歌、ひいては朝倉連歌の終末を飾った連歌師は、前代に関係のあった宗牧の子の宗養である。永禄二年の冬に一乗谷に到着した宗養は、朝倉義景・同景紀らの連歌会に臨み、永禄三年の新春を一乗谷で迎え、以後秋まで滞在するが、この間に宗養の指導で連歌会を開いた人びとは、朝倉孫九郎・栂野吉仍・尭孝法印の末孫万休軒・前波吉継・「上殿」・玉泉坊・宝光院・財乗坊・浄教寺町衆・朝倉景紀といった人たちで、義景筆天神絵像への法楽もある(「宗養発句付句」)。一乗谷城下の連歌普及や朝倉歴代の二条派常光院流歌人の保護なども注目されるが、さらに「上殿」は義景の母で孝景の妻と考えられるので朝倉氏に女性の連歌があったことになり、珍しいことである。なお義景は天神絵像のほか八幡の影像を描いており(資2 正法寺文書一・二号)、その絵画趣味が認められ、朝倉文芸の伝統に生きたといってよいであろう。
 義景はまた越前の常光精舎の呈瑞軒という僧を扶助して学問を学んだという(「翰林五鳳集」、「朝倉始末記」)。そういえば「秋十五番歌合」の「秋祝」に、
   から人のひじりをまつるむかしにも立かへるなり九重の空
と詠んだように、儒学を治世に生かそうとしていた。そのさい「むかしにも立かへる」とした考えが強く、称名老比丘仍覚(三条西公条)が「一乗谷曲水宴詩歌」の序文にいうように、「ふるきをおこし、絶たるをつ」いで宴を催したのもその現われであったろうし、義景が「寄神祝」の題に「すべらき(皇)をまもるも日吉も九重もむかしにかへるときいたる也」と詠んだ一首も共通する(「朝倉義景懐紙」)。
 こうした懐古の念が、織田信長から上洛を命ぜられたとき名門意識となってこれを拒否する態度として現われ、将軍足利義昭を奉ずる信長に朝倉打倒の名分を与え、滅亡へと追いやられたのである。だがしかし一乗谷、いや越前の地に栄えた朝倉文芸の遺影は、四〇〇年後の今日、「一乗谷戦国村」として復活した。いま目前にみえる一乗谷の遺跡や遺物は、その残照である。



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