目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      府中文芸の展開
 朝倉氏は一乗谷を本拠に、東方の大野、西南の府中、さらに南下して敦賀の四大文化圏を形成した。まず大野には郡司朝倉景高の豊かな文芸があったが、能面の故郷としての平泉寺三光坊・大野出目家もこの圏内にあった。敦賀には郡司朝倉宗滴の文雅があったし、宗滴の家督を継いだ景紀は、朝倉家臣の山崎一族で五山禅僧の驢雪鷹と親交があり、馬の絵をよくした(「翰林五鳳集」)。
 次は越前国府・越前守護所の伝統を誇る府中の文芸をみよう。この中心は朝倉氏の譜代府中奉行人の印牧氏で、孝景(英林)を補佐した広次の子である印牧美次・宇野景久・印牧吉広の三兄弟らがいる。二男の景久は戦陣に倒れたが、長男の美次は、和漢仏の三道を学び、連歌を好み、紫式部を慕い、『源氏物語』を愛読するなど「文武相和」の士として知られ(「幻雲文集」)、延徳三年に一乗谷逗留中の尭憲から『古今和歌集』を贈られ、明応八年には兼載を迎えて連歌会を張行した(「園塵」三など)。美次の長男新右衛門尉(孝岳宗信居士)は、孔子や孟子の仁道を行ない、『六韜三略』や王安石の兵書を学び、その筆跡はすばらしく「文武の丈夫」であったと伝えるが、天文九年に死去し、弟の美満が国政を執った(「鷹和尚語録」)。
 こうした印牧氏の風雅のあとを訪ねると、朝倉氏における府中文芸の成立を思わせるものがある。府中の味噌屋は牧渓筆大軸の絵・二王大壷・残月肩衝などをもっていたというが(「仙茶集」)、小袖屋が府中の商人であったこととあいまって、越前府中に町人茶の湯の興隆が考えられる。なお印牧広次と並んで府中奉行人に青木康忠・同景康の父子があるが、この青木氏も肩衝などの名物道具を所蔵していた(「松屋名物集」)。
 ところで朝倉氏は兵書の研究に余念がなく、月舟から『六韜三略』の講義を聞いた敦賀郡司奉行人の上田則種も知られ、また月舟の「富田慈源居士寿像賛并序」は月舟から兵書を学んだ印牧吉広が富田慈源の寿像に賛を求めて成立したものである(「幻雲文集」)。これによると、富田流の剣術の系譜をたどり、慈源の多くの門弟のうち頭角を現わした人が吉広で、その門人からも優れた人を生み出したと書き留めている。天正元年に印牧能信が織田信長軍との戦いに敗れて生け捕られたとき、彼の武勇に免じて助命しようとの動きがあった(「朝倉始末記」)。印牧氏にこうした剣術の伝統があるところから、富田流の奥義を悟って神妙を得たという剣豪鐘巻自斎らが創出されたのであろうかと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ