目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      連歌師と朝倉宗滴
 孝景の文芸を支えた連歌師の来遊に眼を向けよう。もともと北陸下向の場合に越前はその通路であって、越後へたびたび下った宗祇も、また能登を上下した武家歌人の道堅らも通過したが、宗祇高弟の宗長の来越を抜きにしては語られない。宗長が宗祇に同道して初めて一乗谷を訪ねたのは文明十一年三月のこと、二回目は永正十二年のことであった(「宇津山記」、「那智篭」)。
 この年宗長は、京都大徳寺の塔頭酬恩庵・真珠庵の両庵主で今は足羽郡深岳寺の住持の祖心紹越(英林孝景の弟朝倉経景の子)を訪ね、美濃・近江路を通り越前に入った。そして深岳寺の七夕の和漢聯句に発句し、朝倉孝景(宗淳)亭、敦賀郡司の朝倉教景(宗滴)の山荘昨雨軒、山崎吉家邸、また府中奉行人の印牧美次・青木中務・印牧弥六左衛門らの邸での連歌会に臨んだ。とりわけ朝倉宗滴は千句を張行していて、宗滴の連歌執心と越前への連歌普及のほどが知られる。滞在約三か月で、十月初め越前を去った。明けて永正十三年には宗滴に招かれて敦賀へ、同十六年一乗谷へ下った。大永三年(一五二三)は「宗長手記」に記されている旅で、越前へ下向し、四か月の滞在中に朝倉宗滴の昨雨軒の庭の石木の見事さに発句したし、平泉寺からの所望にも応えて発句した。宗長はまた宗滴飼育の鷹に雛が生まれたとき、月舟寿桂に依頼して「養鷹記」を作らせた。月舟は、宗滴の好文好武は生まれつきのもののみならず「家訓」の影響にもよると評したが(「幻雲詩稿」)、まことに適切な言葉で、家訓の「朝倉英林壁書」が思い起こされる。家訓といえば、宗滴が物語ったことを側近の萩原宗俊がまとめたとされる「朝倉宗滴話記」が注目され、そこには小田原の北条早雲は、けちとみえるほどに蓄えた財を、武辺については玉をも砕くように使ったと宗長が常に物語ったと記されている。
 次に宗祇晩年の弟子宗碩も、「敦賀にて」「府中にて」などとして発句を詠んでいるから(「宗碩発句帳」)、越前の人びとへの影響が認められよう。宗長・宗碩没後の第一人者の宗牧も天文七年一乗谷の宿所にあり(「古代名家連歌集」)、同九年にも一乗谷に逗留し、敦賀郡司奉行人の小河吉持の連歌会に同座した(「孤竹」『連歌古注釈集』)。さらに里村昌休(指雪斎)も、小河吉持や魚住筑後入道のもとや敦賀御影堂での連歌会に参席した(「指雪斎発句」)。
写真315 朝倉(本能寺)文琳茶入

写真315 朝倉(本能寺)文琳茶入

 ところで宗長と親しかった朝倉宗滴は、天下一の名物作物茄子の茶入を五〇〇貫文で購入し越前府中の小袖屋に一〇〇〇貫文で売ったが(「山上宗二記」)、朝倉氏は曜変天目・木枯肩衝・(朝倉)肩衝・朝倉(本能寺)文琳茶入・象潟の葉茶壷などの名物を所持していたし、玉筆大軸の遠浦帰帆や牧渓筆大軸の洞庭秋月などの唐絵も秘蔵していて(「松屋名物集」、「仙茶集」)、敦賀湊を通じての、あるいは三国湊を中心としての対外交易が思われる。そして一乗谷に「数奇の座敷」のあったことも確かであるし(「朝倉始末記」)、遺跡・遺物もまた朝倉氏が茶の湯を好んでいたことを証明した。なお朝倉義景の娘が石山本願寺教如の室となって大坂に上るとき、漢肩衝を携えていたということである。



目次へ  前ページへ  次ページへ