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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      京下りの文人

[準備中]

写真314 「資直三十一首」(部分)

 孝景治下に下向した都人のうち、越路の旅の紀行の記録がみえる富小路資直の「資直三十一首」をたどりながら、一乗谷文芸の隆盛のありさまを確ながらも輿に乗って越前に入り一乗谷に着いたが、その往来の賑わいに驚いたらしく、「人しげく」と記している。逗留中の資直は、土地の人から八重桜を手折ってもらい、田舎人の情を感じ、またある人の庭に鷹が卵をあたため「雌雄あひよりて、たはぶれなどするありさま」を珍しくながめるなど、まことにのどかな毎日であった。
 こうしたなかにあって当主孝景との文芸交流は強く心に残ったらしく、「(孝景)宗淳朝倉弾正左衛門尉入道、両三度向顔之後、泉殿にて酒宴をまうけ侍りし、二月晦日比、花もやうやうさきて、庭よりはじめ、ざしきの荘厳めもあやに風流なりしかば、思ひつゞけ侍りしかど、酔中にて打まぎれて帰りしほどに、つとめて書つけて置しを、かれより使の有しにつけてつかはしぬ」として、資直は五首の和歌を孝景に贈った。その初めに「きてみれば柳さくらの春の園都のけしきたちもをよばじ」と、緑の柳とほの赤い桜の色の織りなす朝倉館のすばらしい景観を詠んでいる。孝景が資直の「御指南を仰ぐため」、五首に返歌したことはいうまでもなく、その包紙に一首を添えて贈ると、資直はまた返歌した。孝景は花の盛りに犬追物を興行し、見物の棧敷で盃を傾けながら、
   桜かり嵐もいるやあづさ弓ひきもとゝめず花のちる哉
と贈ると、資直はこう返歌した。
   あづさ弓春も此の春時津風おさまる国の花をみる哉
資直は平穏無事な越前の主孝景の治世を祝福しないではいられなかったのであり、まさしく朝倉氏の全盛を謳歌したのであった。
 資直は朝倉氏の和歌の発展に力を尽したが、学問の隆盛をもたらした代表は清原宣賢である。享禄二年に宣賢は孝景の所望で来訪してのち、合わせて四回下向し、天文十九年七月一乗谷に七六歳の老骨を埋めた。今にその墓碑の一石五輪塔の一部が一乗谷に残る。この間に、『日本書紀』神代巻をはじめ中国の史書『蒙求』や儒書『中庸章句』『古文孝経』『大学章句』『孟子趙注』『孟子抄』などを一乗谷の私宅や寺院で講義したが、『孟子』の講釈は『孟子抄』の新注によるところが多く、一乗谷に新風を吹き込んだものと考えられている。宣賢が天文十二年一乗谷に滞在中に、孫の枝賢が北国見物を兼ねて宣賢を訪ねた。このときの日記「天文十二年記」(『福井市史』資料編2)によって、そのあらましをたどってみよう。
 清原枝賢は四月二十四日一乗谷に着き、宣賢の供をして新造の朝倉館で当主の孝景に見参し、五月に府中祭(武生の総社の祭礼)を見物し、山車に目をみはり、裸の駕輿丁を珍しがった。一乗谷に帰ると、孝景から小姓衆八人に『論語』や『六韜三略』を教えるよう求められ迷惑がっていた祖父宣賢のために、枝賢は手伝って半分以上も読み聞かせた。このほか『毛詩』(『詩経』)を教わった小姓衆もいた。このように孝景は、おそらく朝倉氏の将来をおもんぱかって、若き近臣らに儒学や兵書を学ばせていたものと思われる。
 宣賢の二男で神道家の吉田兼右も数回一乗谷に下向し、孝景やその家臣・神官らに神道の秘事を伝え、天文十四年下向のときにも孝景に神道伝授し(「天文十四年記」)、のち義景にも秘法を授けた(資2 尊経閣文庫所蔵文書七二号)。



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