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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      風流太守朝倉孝景
 貞景の長男孝景(宗淳)の治世は永正九年から天文十七年(一五四八)までの三六年間であり、朝倉氏の全盛時代で、文芸もまた黄金時代であった。月舟寿桂は孝景を、治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙であるといい(「幻雲文集」)、また春沢永恩は文道を左に武道を右にした「風流太守」と述べ(「春沢和尚語録」)、ともに孝景の良将ぶりを高く評価した。
 永正五年、若き孝景は飛鳥井雅康から「宋世蹴鞠伝書」を伝受したが、蹴鞠は公家文芸の典型であるから、孝景に公家社会への憧れのあったことが知られる。ついで享禄四年(一五三一)、孝景は自詠の三十首歌の批評を京都の三条西実隆に求め、これに応えた実隆は、「そめをきし程やいかなる思ふにもあまりて深き露のことの葉」とほめたたえた(『再昌草』同年七月条)。孝景の弟で大野郡司の景高は烏丸冬光の娘を側室として公家に接近し(『尊卑分脈』)、実隆から『古今和歌集』をはじめ数多の詠草などを得ており、歌の人と思われるが、主家に背いて没落した。実隆と文芸交流をもった越前の人びとはおよそ二〇人にのぼるが、わけても山内景通は、題詠の模範とされた堀川院百首の題で詠んだ百首歌に「堀川やきよき流のすゑうけてをよばぬ袖にやどす月影」の一首を添えて実隆に批評を求めるなど、歌道精進の心を示した(『実隆公記』、『再昌草』)。
 こうした孝景治下の文芸興隆に拍車をかけたのは都の文人の一乗谷来訪で、治世三六年間に越前に下向した人びとを、禅僧を除いて挙げるとおよそ次のようになる(『実隆公記』など)。
儒学の清原宣賢・同枝賢・菅原(高辻)章長・同(長坊城)長淳、神道の吉田兼右、医学の谷野一栢・半井見孝・同明孝・丹波親孝、楽家(雅楽)の豊原統秋・同煕秋、歌人の冷泉為和・常光院尭盛、歌鞠両道の飛鳥井雅綱、連歌師の玄清・宗長・宗牧、室町将軍の家臣伊勢貞隆・同清辰、公家の一条房冬・三条公頼・四辻季遠・烏丸光康・勧修寺晴秀・甘露寺元長・同伊長・中御門宣秀・同宣治・四条隆永・持明院基春・松殿忠顕・富小路資直、道悦(*は越前で没した者)。
 料所や家領の貢租の督促のため、あるいは困窮のためなどによる下向もあるが、孝景の招待も少なくないようである。彼らの在国年月には長短はあるが、それぞれの専門の道で一乗谷文芸の隆盛に関わり、越前に小京都の出現する要因となった。
 右の下向文人のうち道悦は越前と京都を結んだ人で、越前への文化の伝達者であり、あるいは越前の人で一乗谷で亡くなったかもしれない(同前)。次に早くから越前と関係のあった典薬頭半井明重(宗鑑)の子明孝・見孝兄弟も注目されるが(『公卿補任』、「半井系図」)、やはり谷野一栢を見逃せない。一栢は在京中は易学の人で、「医書ヲモ読ム也」ともいわれ(「聾盲記」永正十七年正月二十七日条)、易学で広く知られていた。孝景に招かれて一乗谷に住み、三段崎安指(玉雲軒)に医者の法を伝えたとされ、天文五年九月には孝景の命により、明の熊宗立が注釈した内経系医学の書「八十一難経」を校正して一乗谷で出版したが、これは版木版として越前で現在知られる限りでは最初の書籍として名高く、その版木の一部は敦賀の西福寺に伝存する。三段崎は三崎と改め、朝倉家臣で医術の人といわれる大月景秀の後裔とともに今に存続する。なお一乗谷に出土した「湯液本草」の写本(断簡)は中国元代の医薬書で、熊宗立の刊本を写したものと考えられている。



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