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第六章 中世後期の宗教と文化
   第四節 戦国期の文芸
    一 朝倉氏の文芸
      文芸の展開
 氏景のあとを受けた長男貞景の治世二六年間は戦いの連続であったが、またこの間には都人の来遊が多く、一乗谷文芸の展開の速度は早い。まず歌人の動向についていえば、延徳二年(一四九〇)一乗谷をめざして六月に下着した正広がいる。同月十四日には朝倉館の月次歌会に臨み、「四方の山霞もかけず雲もなしはるゝや夏の姿なるらん」と、貞景治下の平安を祝福した。以後七月末までに貞景館での三度の歌会に臨み、朝倉氏家臣の斎藤隆家・武原忠恒・大月景俊・山崎吉家・板倉宗永・朝倉禅勇(経景)、千手院・顕本寺らと雅交をもち、八月五日には尭憲に歌説を授けた(「松下集」五)。この尭憲(先の常光院)や今の常光院(尭盛、または尭智か)に学んだ家臣の詫美景元は、詩歌に儒書などを参考にして注釈を加えたほどである(「幻雲文集」)。尭憲は当主貞景の師でもあったろう。その貞景が「月前虫」の題に詠んだ一首を、「古筆短冊手鑑」から挙げておこう。    月は猶草葉にてらす虫の音の野分の跡はさだかにもなし   貞景

写真313 朝倉貞景懐紙(「古筆短冊手鑑」)

写真313 朝倉貞景懐紙(「古筆短冊手鑑」)

 また、藤原為家の子冷泉為相(母は阿仏尼)を祖とし、近年時雨亭文庫で有名になった京都上冷泉家の歌道家冷泉為広の、延徳三年越後下向時と上洛時の二度にわたる越前通過も注目される。三月に京都を発った為広は、敦賀の善妙寺では朝倉景冬(孝景の弟)、足羽郡北庄では朝倉土佐守(景安か)・朝倉貞景と交流し、上洛のさいには一乗谷の朝倉館に二泊し、貞景のもてなしを受けた(「冷泉為広卿越後下向日記」『福井県史研究』三)。
 諸国を廻った連歌師宗祇は前後九回ほど越前への道を歩み滞在したから、朝倉氏に及ぼした影響は大きかった。はたして明応二年(一四九三)に成立した自撰の「下草」をみると、朝倉貞景館の会に、
   おくや滝雲に□(涼)しき谷のこゑ   宗祇
と、一乗谷の景観を発句している。宗祇の門弟宗仲も在国し、同じく門弟の玄清は当代最高の文化人三条西実隆から「弄花抄」(『源氏物語』の注釈書)を借りて、永正八年(一五一一)九月に越前に下向してのち朝倉武士所望の色紙の染筆を実隆に依頼するなど、越前と京都の懸橋の役割を果たした。宗祇と並び称される連歌師兼載は、明応八年の冬に関東から北陸路を越前に入り、府中奉行人印牧広次や山崎吉家の連歌会に臨み、朝倉家では、
   おさまれる山風しるし雪の松    兼載
と発句し、朝倉氏の治政による平和な越前を寿いだ(「園塵」三)。
 永正元年十二月のこと、貞景が絵を「よくかき候よし、きこしめし」た後柏原天皇が料所(皇室領)の貢租の増大を図って、四幅一対、一幅一間に及ぶ唐絵を、「あなたにはよきゑしも候べきに」と気遣いながら貞景に贈ったことはよく知られている(『宣胤卿記』同年十二月九日条)。この越前の「よきゑし」が「累世国画」(「幻雲文集」)、つまり越前の曾我派代々の名人の絵師であったことはいうまでもない(資14 絵画編参照)。貞景もまた中央に積極的に働きかけ、永正三年十二月には甘露寺元長を通じて土佐光信に洛中の屏風絵を描かせているが(『実隆公記』同年十二月二十二日条)、これは洛中図の初見として名高く、朝倉貞景の京都景仰の姿が感じられる。
 貞景の妻(美濃斎藤利国の娘)は、実隆から『伊勢物語』や後柏原天皇宸筆の「源氏詞」一帖を贈られ(同 明応七年八月二十六日・永正六年二月四日条)、また朝廷から「三代和歌集」の小本を贈られた(『宣胤卿記』永正元年十二月九日条)。なお「越前」(貞景の妻か)は、実隆に『新古今和歌集』『源氏物語』の書写を依頼して贈られ、『栄花物語』を借用している。また実隆が甘露寺元長に書き与えた『庭訓往来』も、貞景の妻の依頼であったと思われる。あるいは一乗谷で出土した『庭訓往来』(断簡)はその一本であったかもしれない。



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