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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      幸若舞と戦国大名
 先にもふれたように、幸若は戦国大名との結びつきが強い。信長の幸若好きは有名であり、特に「敦盛」を好んで、自らも舞ったという(『信長公記』巻一)。天正十年五月十九日、信長は安土見寺に家康を招き、幸若八郎九郎の舞と梅若大夫の能を見た。舞二番・能三番があったが、梅若の能が不出来で、梅若は折檻された。改めて幸若舞があり、信長の機嫌が直り、幸若は黄金一〇枚を賜わったという(『信長公記』巻一五)。この幸若先・猿楽後という格式・序列は江戸幕府においてもそのまま踏襲された。諸大名が幸若家に所領を与えたことは先述したが、最も古いものが天正二年正月六日に八郎九郎へ一〇〇石を与えた信長の朱印状である(『幸若舞曲集 序説』)。
 『上井覚兼日記』は薩摩・大隅・日向の大名島津義久に仕えた宮崎城主上井覚兼の日記である。ここにも幸若与十郎・弥左衛門尉父子がしばしば現われている(天正十年十一月から同十四年正月)。彼らの名は幸若家諸系図にはみえない。また家康に仕えた松平家忠の『家忠日記』には、三河の舞々たちのほか、越前の舞々の名がしばしばみえる。毛利輝元・秀就父子も幸若を愛好し、御伽衆奈良松友嘉の子善吉・善三郎を、舞習得のために小八郎家に遣わした。慶長十七年のことらしい。兄弟は熱心に舞を学び、元和四年(一六一八)五月、「我等家の舞一部の通り残らず念を入れ相伝」を許され(毛利家家老益田玄蕃充ての小八郎安信書状)、帰国の途についた(なおこの時期、幸若家に入門する者が多くいたことは、同書状に「弟子分の者共国々に数多御座候へども」とあることによってわかる)。両主君のご機嫌よく、兄弟は面目をほどこした。このとき、兄弟が持ち帰った「小八郎安信」署名の幸若正本をはじめ、そののちに収集されたものを含めて、現在山口県防府市毛利報公会に残されている。
 大頭も大名の庇護を受ける。大江の「大頭舞之系図」によると、百足屋善兵衛の弟子大沢次助幸次が天正十年に筑後山下城主蒲池鎮運によばれ、家中の者に舞を教えた。天正十五年の蒲池氏没落後は筑後国内を転々とし、天明七年(一七八七)松尾増墺に伝えられてからは大江に定着し、家元制度のもとに農民の間に伝えられ、今日にいたっている。
 大江の近くの福岡県甘木市秋月郷土館には秋月藩黒田家の蔵書が納められているが、そのなかに元禄以前の写と思われる舞の本一〇冊(三九曲)がある。黒田家と曲舞との関係は不明ながら、曲舞をたしなむこと、あるいは読むことが当時の大名家にあって教養とされていたことは、『上井覚兼日記』に明らかである。



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