目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      大頭舞
 幸若より少し遅れて大頭といわれる一派が台頭してきた。大永三年(一五二三)二月七日に「上京ノ者」とあるので(『二水記』同日条)、京都で素人衆がプロに転向したものらしい。このころから諸記録には曲名が記されるようになる。幸若舞曲の諸本は大きく分けて幸若系と大頭系に分かれるとされる。流派によって二つに分かれるとはいえ、一般の語り物のような詞章上の違いはなく、同一のテクストから派生したものと思われる。各地の唱門師や曲舞の派があったにもかかわらず、同じ曲を似たような詞章で語っていたことは、これらを統括する力が働いていたからであろうが、その中心にいたのが幸若と思われる。
 織豊期から幸若は大名との結びつきを強めていき、次第に一般の人びとの前では上演しなくなっていくが、かわって大頭が人びとの間で受け入れられていき、近世には舞といえばむしろ大頭の舞をさしていた(例えば近松門左衛門の「傾城反魂香」など)。また近世に古活字版や版本という形で「舞の本」が出版され、読み物として人気があったが、これらは大頭の詞章にもとづくものである。



目次へ  前ページへ  次ページへ