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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      幸若の分類とその世界
 中世末期から近世初期にかけて流行した語り物芸能の一つに、幸若舞曲といわれるものがある。そのテクストは五二曲が現存する。やや問題のある「都入」「皆鶴」を除き、まとめてみると表69のようになる。

表69 幸若舞曲の曲名一覧

表69 幸若舞曲の曲名一覧

 Tは古くからの伝説や寺社の縁起にもとづくもの、Uは『平治物語』『平家物語』『義経記』『曾我物語』など軍記物語系の作品・伝説にもとづいて作られたもの、そのうち「三木」「本能寺」は新作で、秀吉の命により小八郎吉信らが節を付けたものである。
 多くは超人的な英雄の戦いぶりを描く。例えば、無碍宝珠をめぐって阿修羅軍と戦う万戸将軍、鉄の弓を引いて「むくり」(蒙古)と戦う百合若大臣、歌舞伎の荒事を思わせる金王丸、三七度頼朝をねらう景清、天狗の法を得て強盗を退治する牛若、巨大な棒長刀を持って敵をなぎ倒す弁慶、怒りの塊のような曾我五郎などである。総じて彼らは饒舌であり、危機に陥っては弁舌で敵を欺き、自らを勘当した母を説得し、内外の故事を引用して自らの行動を決断する。女性もまた戦闘的であり、饒舌であり、行動的である。彼らの名が後世国民的英雄として定着したのは、幸若舞曲の影響であるといっても過言ではない。
 幸若舞曲の登場人物たちは荒あらしく行動し、大げさに悲しむ。流離した英雄は悪人を退治し、部下はあくまで主君に忠義を尽くし、ときには妻子を犠牲にし、父や母は道理のためにはわが子を殺し、裏切った部下は徹底的な復讐を受け、女性は献身的に夫に尽くし、神仏は信仰する者に奇跡を現わす。また、内容に関わりなくめでたい言葉で結ばれるという祝言的性格をもつ。
 異なる曲間で類似場面・表現が繰り返される。例えば、子殺しの場面は「鎌田」「景清」「和泉が城」にみられるが、ほとんど固有名詞が違うのみであり、そのほか武装表現・戦闘場面・道行なども類型的である。この類型性は語り物ということを考えれば当然のことであり、耳で聞く分には極めて理解しやすいものである。同じ語り物でも、『平家物語』のように哀切美にあふれているのでもなく、説経節のように悲惨な内容を語るのでもない。曲名を一覧すれば明らかなように猿楽(能)と同じものが多いが、地謡もなく、弁慶役・義経役といった役割分担もなく、小道具もなく、場面に応じて刀を抜いたり手足で所作をしたりすることもない。長い物語を数人で区切り、舞いながら節をつけて語っていくというものである。したがって、二人でも三人でも上演できる。基本的には二人舞であった幸若が、天正三年(一五七五)八月二十九日に坂井郡豊原寺の信長陣で「烏帽子折」を舞ったときのように、四人で舞うこともあったし(資3 山田竜治家文書一号)、名人といわれた小八郎安林の時期以降はワキ・ツレをともなう三人舞であったようだ(『長明書留』)。平家琵琶が一人で語っていくのに対して、語り物に簡単な舞を取り入れて視覚化したものといえる。幸若舞曲は、まさに戦国期の人びとに愛好されるにふさわしい内容であり、表現であったといえよう。
写真309 大江の幸若舞(福岡県瀬高町)

写真309 大江の幸若舞(福岡県瀬高町)

 現在は福岡県瀬高町大江に伝承されているのみである。大江では三人が舞台に立ち、単調な節まわしで語ってゆく。楽器は鼓のみである。舞とはいえ特別な所作があるわけではなく、やや下に両手を広げて前進後進を繰り返し、ときに足を強く踏みながら舞台を8字形に回る。大江の舞は大頭系のものだが、幸若舞もこれと同じようなものであったろう。幸若は二人舞という違いがあるが、節付けはコトバ・フシ・ツメを基本とし(コトバはリズムのある朗読調の説明的部分で、フシはメロディーがあり情感をこめた部分で、ツメはテンポが早く勇壮な部分で使われる)、これは大江のものも幸若系のテクストもほぼ同じ箇所に付けられている。



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