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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    一 猿楽
      若狭猿楽
 『拾椎雑話』は若狭の猿楽について、「元来は四座にて倉氏・尾古・吉祥・気山と申候、いつとなく倉を頭として三座はしたがひける」と述べている。倉大夫は慶長元年(一五九六)に丹後浦島神社(京都府伊根町)で演能しており、また酒井氏の若狭移封以後の倉座の隆盛は明らかである。
写真307 地頭某天満宮楽頭職補任状(江村伊平治家文書)

写真307 地頭某天満宮楽頭職補任状(江村伊平治家文書)

 これに対して中世の若狭において気山座がさかんに活動していた様子は、気山座の末裔である江村伊平治家の文書からうかがえる(資8 江村伊平治家文書一〜一〇号)。
 観応二年(一三五一)四月一日付の文書は、猿楽の楽頭米の給付を代官が保証する充行状で、若狭における猿楽の初出史料である(同一号)。次に古い延文四年(一三五九)の充行状は、地頭によって発給された楽頭職の補任状であり充行状である(同二号)。その内容は、地頭により三方郡の藤井天満宮の楽頭(祭礼における猿楽上演の独占権と義務をもつ者)に気山(別の史料には毛山とも書かれケヤマと訓む)大夫が任ぜられ、それにつき藤井保からの二石二斗の給付を保証されたというものである。この文書は気山という名の初出史料である。
 江村文書には、このほか応安四年(一三七一)や応永元年(一三九四)の楽頭田充行状が残っており(同三・四号)、南北朝から室町前期にかけて、気山座が各所の楽頭職を手に入れて隆盛のさまがうかがえる。しかし明応四年(一四九五)四月日付の気山彦三郎による長文の言上書によれば、気山座はこのころ楽頭職獲得の競争に敗れたり、楽頭職を奪われたりしており(同五号)、倉氏の初出史料である永正十六年の文書によれば、極楽寺の楽頭職が気山彦九郎から倉弥二郎に売り渡されている(同六号)。『拾椎雑話』に「いつとなく倉を頭として三座はしたがひける」とあるが、十六世紀中に倉座が気山座をおさえて首位に立っていったものと思われる。
 気山座の人たちのなかには、中央の役者と交流する者もいた。江村文書の天文十六年(一五四七)三月朔日付の文書にみえる気山五郎三郎には(同九号)、観世左衛門尉・保正源次郎・宮増弥左衛門の三人の判が押された鼓・笛の伝書が相伝されている(「早稲田大学演劇博物館所蔵文書」)。
 この三人のなかで特に気山五郎三郎と関係が深かったのは、晩年を若狭で過ごした小鼓の名人宮増弥左衛門であろう。宮増弥左衛門の経歴については『四座役者目録』に詳しいが、「弥左衛門若狭国にて、弘治二丙辰七月十三日に、七十四五にて果てらる」とあり、若狭で弘治二年に七十四、五歳で亡くなったことがわかる。宮増弥左衛門は、天文十二年二月二十五日の『天文日記』の記事を最後として記録類から姿を消すが、この年以降若狭に下ったのではなかろうか。この推定を傍証するものとして、次の「大野本笛鼓伝書」(『細川五部伝書』)の奥書がある。
  天文十五年二月日   宮増弥左衛門
                      親賢(花押)

    大野三郎殿参       判形スキ
                    ウツシ也
 大野三郎は若狭武田の被官人であった大野党の一人とみて間違いなく、若狭の地において宮増弥左衛門が大野三郎に対し、右のような奥書を与えたと考えられる。現存最古の能役者の肖像画「宮増弥左衛門親賢画像」も若狭で描かれたものである。のちにこの絵に賛を書いた雄長老の『羽弓集』には、この画像について「窪田日向守統泰若耶に於いてこれを画く、小鼓を持つ」とあり、窪田日向守統泰が若耶(若狭)で描いたことがわかる。
 窪田統泰もまた若狭の猿楽に大きな影響を与えた人物である。窪田統泰は史料では『御湯殿上日記』『言継卿記』の大永七年(一五二七)五月九日条に禁裏出仕の手猿楽(素人猿楽)者として初めて姿を現わし、以降謡が看板の手猿楽者として禁裏を中心に公卿の間でもてはやされるが(『御湯殿上日記』、『言継卿記』、「公頼公記」)、享禄二年(一五二九)三月十一日の『実隆公記』に初出してからは、他の日記類にほとんど姿をみせず、『実隆公記』にのみ頻出するようになる。
 特に『実隆公記』享禄五年六月五日の、「窪田若州より上洛す、海松を献ず、晩に及び来たる、盃を賜わる」と、五日後の十日の「窪田若州へ下向すと云々、□□一声興あり、右京亮返事これを遣す」とある記事が注目される。十日の記事では、窪田が若州に下向する由をいい、謡をうたい、右京亮すなわち粟屋元隆への実隆の返事をことづかっている。これ以降、窪田統泰は若狭の粟屋元隆と京都の三条西実隆の連絡役として活躍する。
 これは、若狭の武田元光が多能な文化人で手猿楽者でもあった土倉の吉田与次(角倉了以の祖父)を被官として登用し、若狭と京都の連絡役にあたらせていたことを、粟屋元隆が見習ったものと考えられる。つまり、元隆はその勢力の増した享禄年間、実隆邸に出入りする吉田与次のような文化人窪田統泰に目をつけ、これを客分的被官として若狭において抱え、若狭と京都との連絡役に起用したのである。
写真308 「日蓮聖人註画讃」巻第五(部分)

写真308 「日蓮聖人註画讃」巻第五(部分)

 天文三年の冬から同五年の秋にかけて、窪田統泰は粟屋元隆の庇護のもと、小浜の長源寺において「日蓮聖人註画讃」を描いている。統泰は、天文六年には三条西実隆の長逝、翌七年には粟屋元隆の失脚という悲運に見舞われるが、ずっと若狭の地に住んで、宮増画像などの絵を描いたり、地元の武士たちに謡を教えたりしていたようである。大野党の一人大野甚六なる人物に謡本二百番を進上したのもこのころであろう。この二百番の謡本を核として丹後の細川家においてできあがったのが、「妙庵玄又(細川幽斎の三男)手沢五番綴本」である。
 宮増弥左衛門や窪田統泰などによって蒔かれた若狭の能の文化は、永禄年間(一五五八〜七〇)ころから観世元頼・古津宗印・観世又九郎など観世座のワキ系統の人たちが若狭と深い縁を結ぶことによって、いっそう大きく花開いたと考えられる。
 細川幽斎や同忠興を中心とする丹後の細川氏の高度な能楽文化の一翼を担ったのが、若狭から流れ込んできた武士たちであった。細川忠興関係の丹後における能会の記録である『丹後細川能番組』は、天正十一年(一五八三)から慶長四年に及ぶ五〇回総計四三三番の番組を収め、各役の名を詳細に記載している点に特色があるが、その出演者の顔ぶれをみると若狭衆が多いのに驚かされる。旧幕臣グループにつぐ勢力である。
 例えば沼田氏・大草氏は旧幕臣だがその根拠地は若狭であり、逸見蔵人や中津海次兵衛など逸見氏の一党、また大野右京進をはじめとする七人の大野党、それに山本中務・畑田善加・入江権丞・寺井直松・わかさ親七・わかさ与六・くらや又七なども若狭の人間であろう。観世元頼の弟の古津宗印も若狭と関係が深く、窪田宗佐は窪田統泰の後嗣と考えられ、やはり若狭出身であろう。
 大野党を例にとってみよう。大野右京進を名乗る人物は大永年間(一五二一〜二八)ころの『実隆公記』に確認されるが、永禄八年の将軍義輝暗殺のとき、その情報を若狭の武田義統の命令で朝倉義景に注進した人物に大野右京進がいる(『島津家文書』)。『丹後細川能番組』の大野右京進もこれと同一人物と思われる。その右京進をはじめとする大野党の人びとが、「妙庵玄又手沢五番綴本」の原本である大野甚六充ての窪田統泰所持二百番本、あるいは若狭小浜で没した宮増弥左衛門からその署名を与えられた「大野本笛鼓伝書」などを持って、若狭から丹後へ流れ込んでいるのである。「能口伝之聞書」に「若狭衆、観世小次郎(元頼)弟子、山本中務云」とある山本中務なども主な仲介者の一人であろう。
 『九州道の記』にみえる天正十五年四月二十八日の出雲大社でのエピソードは、能にたしなみのある若狭衆が細川幽斎の家中に流れ込む場面を活写するものである。
休み居たる所に、若州の葛西といふもの尋来て対面しける。大鼓打つ人にて、若狭衆おほく同道ありて、一番きくべきよしあれば、さらばとて催けるに、両国造より所につけたるさかな(肴)たる(樽)など、つかひにてをく(贈)られけるほどに、笛鼓の役者どもきこみて、夜更るまで乱舞ありけるに、おもひかけぬことなりき。
 細川幽斎は観世与左衛門国広から奥義を相伝されるほどの太鼓の名手であり、『丹後細川能番組』では大鼓をも打っている。その幽斎を興がらせるほどの力量を、大鼓打ちの葛西以下の若狭衆はもっていたに違いない。
 若狭の猿楽文化の高さを思いみるべきであろう。



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