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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    一 猿楽
      越前猿楽
 観阿弥・世阿弥により能が大成される以前の鎌倉末から南北朝期に、越前において猿楽がすでに相当高度に発達していたらしいことは、世阿弥の『申楽談儀』の次の記事から想像することができる。
 越前には、石王兵衛、そののち竜右衛門、そののち夜叉、そののち文蔵、そののち小牛、そののち徳若なり。石王兵衛・竜右衛門までは、たれも着るに子細なし。夜叉よりのちのは、着手を嫌ふなり。金剛権守が着し、文蔵打の本打なり。この座に年寄りたる尉、竜右衛門。恋の重荷の面とて名誉せし笑尉は、夜叉が作なり。老松の後などに着るは、小牛なり。
 観阿弥と同世代の金剛権守が文蔵打ちの面を着ているので、石王兵衛・竜右衛門・夜叉・文蔵と続く面打ちの系譜から単純に逆算すると、石王兵衛は観阿弥より相当以前の鎌倉末期ごろまでさかのぼるような著名な面打ちということになり、越前での早くからの猿楽の隆盛がしのばれるのである。
 また右の記事は、越前が尉面(老夫の面)の一大産地であったことを告げている。越前の面打ちたちは尉面製作を得意としており、他国の猿楽に尉面を供給していた。さらに「文蔵打の本打なり」という言葉からは、文蔵の尉面がすでに本面として扱われていて、その写しの面が多く作られていた事情がうかがえ、尉面の様式的完成は越前の地でなされたとも考えられる。このような越前での面製作の伝統は、のちの平泉寺三光坊や大野出目家へと脈々と流れていくのである。
写真306 気山座の尉面

写真306 気山座の尉面

 越前での猿楽の記録の初出は正和三年(一三一四)で、丹生郡越知山大谷寺の小白山社の八講においてである(資5 越知神社文書八号)。また、越前猿楽の役者の名が史料にみえ始めるのは、世阿弥晩年のころからである。永享七年(一四三五)二月二十一日には、「今日越前猿楽新参す、御所に於いて仕る」とある(『看聞日記』同日条)。この日、京都室町第で行なわれた猿楽は、足利義教夫妻や貞成親王を主要な観客とする、観世と越前猿楽の立合(競演)で、観世が五番、越前猿楽が八番の能を舞っている。新参の越前猿楽を迎えうつ観世方は年盛りの音阿弥が五番すべてを舞ったと思われるが、「今日将軍御所に於いて、越の申楽福来芸能を施す」とあるので(『満済准后日記』同日条)、越前猿楽の方の中心役者は福来であったことがわかる。福来は、永享七年より少し前に書かれた世阿弥の『五音』に、「松浦」という曲の作曲者として記されている。近世に入って編まれた『近代四座役者目録』や『仮面譜』によれば面打ちとも伝えられる福来だが、永享ごろの越前猿楽は福来を中心として中央とも拮抗するほどの力をもっていたようである。
 永享七年に福来率いる越前猿楽を将軍の前にデビューさせる能会を斡旋し主催したのは、「勘解由小路治部大輔」すなわち斯波義郷であった(『看聞日記』同年二月二十一日条)。また少し時代は降るが、寛正六年(一四六五)七月七日に斯波義敏邸で越前猿楽右馬太郎の演能がある旨が記されている(『親元日記』同年七月六日条)。室町前期の越前猿楽の保護者は斯波氏であった。なお右馬太郎の系譜に連なる者に、一時期金春安照(一五四九〜一六二一)を養子にした越前ノ右馬太夫がいる(『近代四座役者目録』)。また文正元年(一四六六)二月には、越前の女猿楽が上洛して室町第や仙洞御所で演能したことが知られる(『後法興院記』同年二月二十三日条、『蔭凉軒日録』同年二月二十四日条)。このように応仁の乱以前には、越前猿楽はしばしば京都に進出して演能する機会をもっている。
 一方、応仁の乱後の文明十年代(一四七八〜八七)には、京都の芸能市場の縮小を余儀なくされた金剛・金春・観世など大和猿楽の諸座が越前や能登に下るケースが増えてくる。
 この時期からは、越前猿楽と中央の猿楽との能役者の交流が目立ってくる。「越前の者なり、召上げられ、京座に居候なり、名人なり」とされる犬若大夫のような越前の猿楽者(十五世紀末ころか)もいれば(「観世狂言之次第」『近代四座役者目録』)、前述の金春安照のように、越前の猿楽大夫の養子となる者も現われるのである。
 応仁の乱後、越前を平定した朝倉孝景(英林)はその晩年、『朝倉英林壁書』のなかで猿楽について次のように述べている。
 一、四座の猿楽切々呼下し、見物好まれ間鋪候。其価を以て、国の申楽の器用ならんを上洛させ、仕舞を習はせ候はば、後代迄然るべきか。
 京都から四座の猿楽をたびたび呼び寄せて見物することを控え、その余った費用で地元の優秀な猿楽者を京都に派遣して能の技を学ばせるほうが末代まで猿楽を楽しむことができる得策である、というものである。これは、短期的には、文明十年代に頻繁となった大和猿楽諸座の越前下向に歯止めをかけることをもくろんだものと思われるが、長期的には、斯波氏に代わって越前猿楽の保護者となった朝倉氏によるその保護奨励策といえる。といっても、国内の猿楽を京都に派遣して学ばせることを奨励するものであり、この方針により、朝倉氏の時代になって越前猿楽はいっそう中央の猿楽との交流を深めるのである。
 朝倉氏が特に目をかけた越前猿楽は、『時衆過去帳』(神奈川県藤沢市清浄光寺所蔵)の記事により応永以前からの存在が確認される一若大夫とその一座であり、この一若の人びとが中央の猿楽をよく学んでいる。月舟寿桂の著した『幻雲北征文集』の「宿神像」の賛からは、「越之」という文字が冠せられる一若大夫吉家が観世大夫元広に習ったことがわかる。また同じ『幻雲北征文集』「金春与五郎寿像傍有鼓」の賛の付載記事には、
 金春与五郎鼓を以て業となす。其右に出る者なし。一若源三郎吉久従いてこれに学ぶ。また能く妙を得。因りて其真を写す。以て拙賛を需む。蓋し表受虚ならざるなり。
とあり、一若源三郎吉久が小鼓の名人金春与五郎(美濃権守)について小鼓を学び、「能く妙を得」たため小鼓の師資相承が行なわれ、印可を受けたしるしに師の寿像を描くという禅宗の習慣に従って、金春与五郎の寿像が描かれたということがわかる。『幻雲北征文集』での位置からすると、その賛は永正年間(一五〇四〜二一)の初めころの作であろう。
 また『鼓秘書』の奥書(鴻山文庫蔵『音曲秘書』添付「古書売立目録」所載の写真による)からは、『鼓秘書』が美濃権守すなわち金春与五郎から一若弥右衛門吉次に贈られたものであることがわかる。「吉」を通字とする越前の一若の一統と金春与五郎は浅からぬ関係をもっていたらしい。 「金春与五郎寿像」「宿神像」の賛が、ともに『幻雲文集』でなく『幻雲北征文集』に入っているのは興味深い。「北征」とは北方へ行くの意であり、「予自壮歳往来于越四十余年」(「某人住東福山林友社」『幻雲稿』)と四〇年以上にわたって越前と京都を往来した月舟寿桂の、越前で書いた文の集成が『幻雲北征文集』と考えられる。「金春与五郎寿像賛」は月舟寿桂が越前に滞在中、一若源三郎吉久に請われて書いたものであろう。しかし、印可を受けるくらいに上達した一若源三郎吉久は、やはり『朝倉英林壁書』の方針どおり、京都に出向いて金春与五郎からかなり長期にわたって小鼓を習ったと考えた方がよいだろう。一若大夫吉家の場合も同じである。こうして一若の座は、高水準の技倆をもって朝倉家お抱えの越前猿楽の地位を維持し、それは永禄十一年(一五六八)三月八日、朝倉義景がその館に足利義昭を招いたさいの一若大夫の演能にまでつながっていくのである(「朝倉始末記」)。
 金春与五郎と同時代の笛の名人彦兵衛も越前と縁が深い。鴻山文庫蔵『遊舞集』の奥書によれば、この書は永正十年八月十二日付で、彦兵衛が朝倉与三(与三右衛門景職)に相伝した笛伝書である。「能口伝之聞書」(『細川五部伝書』)には、越前朝倉孝景(宗淳)が観世宗節に所望した「関寺小町」の笛をめぐる彦兵衛とその弟子千野与一左衛門の確執が語られる。弘治三年(一五五七)には観世宗節(大夫元忠、永禄十年ごろ出家して宗節を名乗る)の率いる観世一座が越前に下向したことが知られる(資2 石徹白徳郎家文書二号)。「能口伝之聞書」の「関寺小町」の一件は、これ以前の越前でのエピソードに違いない。また、金春禅鳳は『反古裏の書』や『禅鳳雑談』で朝倉貞景の言葉を引いており、「朝倉宗滴話記」には禅珍弥次郎(金春方太鼓方)のことがみえる。
 朝倉一族と中央の能役者のかかわりもまた深いものがあった。それをよく示す十六世紀ころのエピソードが、次に示す「越前者」のなかの「越前ノ萩原・同小萩原」の項にみえる(『近代四座役者目録』)。
 越前ノ萩原
是は能はせず。謡上手にて、よく音曲をさいさいする。或時、朝倉殿へ大蔵九郎見舞われ、一調を打つ。萩原、色々音曲を仕掛け、和布刈の切に、つたい下つて、ここにてむつかしく音曲し、九郎も、自由に打事成りがたし。
 同小萩原
幸四郎次郎、越前へ下り、子の萩原の音曲に逢て、鼓散々打損じ、上る。此やがて次に、宗拶下られ、又一調にて謡ふ。何方も鼓につきうたい、其上、さてさてうたいよき事かな。この前、四郎次郎下り、打損ふ。知らぬ者は如何思はんと存ずるに、御下りにて名を上げ申すと悦び、朝倉殿も御悦び限りなく、色々御引出物有り。親の萩原より、朝倉殿ことのほか御自慢なされたる者なり。色々咄どもあり。
 越前の萩原親子は、京都から下ってきた大蔵九郎(大鼓)、幸四郎次郎(小鼓)、宗拶(観世九郎豊次、小鼓)などの名人を相手に一歩もひかず、かえって彼らを手こずらせるくらいの謡の名手であった。朝倉氏が愛顧した越前猿楽のレベルの高さと都の芸への対抗意識がうかがえるエピソードである。『近代四座役者目録』でわざわざ「越前者」を立項するくらいに、越前は室町期の能のなかで特異な位置を占めていたのである。



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