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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
     四 法華宗の動き
      天文法華の乱
 京都における法華宗は天文年間(一五三二〜五五)ごろに発展の最盛期を迎え、市中の半数が法華宗徒であったといわれる。強大な自治組織をもち、一万人に達する軍事力も備えており、天文元年の一向一揆攻撃には佐々木定頼の与力として出陣した。町衆はこの力を利用して税の免除を要求するなど、為政者にとっては大きな障害となってきた。また法華宗の発展で影響を受けたのが、大きな勢力を誇示していた比叡山衆徒であった。天文五年、法華宗との論戦に破れた比叡山衆徒は延暦寺三塔および三井寺(園城寺)とともに蜂起し、これに近江武士団が加わり、七万五〇〇〇の軍勢で本国寺をはじめ京都法華宗本寺二一か寺を攻撃して破却した。この背後には将軍義晴があり、町衆勢力の一掃を狙ったことが推測される。この攻撃に天台衆徒の動員は広範囲に行なわれたらしく、若狭神宮寺に対しても梶井宮門跡の令旨が発給されており、若狭からも参陣したと思われる(資9 神宮寺文書四〇・四一号)。
 天台宗側は若狭の法華宗への弾圧を企てるが、実際には法華宗に対する圧力はみられず、さほどの影響はなかったようである。これには武田氏の有力家臣である粟屋元隆の意志が十分発揮されたと考えられ、そのため天台一派からの介入が阻まれたとみるべきであろう。
 天文法華の乱にさいして若狭武田氏は傍観しており、粟屋元隆の法華宗庇護は京都日蓮党にとっては大きな救いであった。というのは、法華宗各派とも、京都本寺に事あるときは小浜の寺院を仮本寺として活動したという。さらに本来は本寺にあるべきはずの宗宝、例えば本境寺の「絹本著色五祖曼荼羅」(南北朝期)、長源寺の後土御門天皇証判の「守護国家論」、加えて両寺には日蓮筆の断簡が伝存されているなど、この乱にさいして本寺からの若狭への什宝移転があったと推測される。天文法華の乱前後に、長源寺六世日政の発願で、元隆と深い関わりをもっていた京都の絵師窪田統泰が「日蓮聖人註画讃」を長源寺で描いたのは(本章三節一参照)、法華宗の危難にさいして法灯護持の願いをこめてのことではなかったかといわれている。そのほかでは、天文二十二年に連歌師宗養が長源寺に遊び、同寺の塔頭安金院には幕府の御用絵師小栗宗丹・宗栗の供養塔が残るなど、文化面での関わりもあった。戦国末期では朝倉氏の乱入など「退転」に及ぶほどの難儀もあったが、武田氏奉行人山県秀政によって長源寺は護持されている。中世以来、若狭の法華宗は町衆門閥や武家方とつながりをもちながら発展し、これが近世の寺院経営に大きな影響を与えたのであった。



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