目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
     四 法華宗の動き
      室町期の若狭の法華宗
 法華宗は少なくとも南北朝期には妙顕寺派によって確実な定着をみるが、京都での法華宗に対する比叡山衆徒の迫害は著しく、至徳四年(一三八七)六月七日に比叡山衆徒によって妙顕寺は破却され、その日のうちに妙顕寺日霽は難を逃れて小浜へと走った。同日付の日霽筆「曼荼羅本尊」が本境寺に残されており、興味をひく。この当時本境寺は存在せず、この曼荼羅が小浜で描かれたとは思われないが、法難との関わりを示すものとして貴重である。法華宗の重要人物が小浜へ避難していることは、この地方の安全が確保されていたことを証明しており、以後においても小浜への避難はあったようである。
 若狭の法華宗寺院は鎌倉末期成立の妙興寺、南北朝期(あるいは室町初期)成立の長源寺がともに古い由緒をもち、両寺以外では永享九年(一四三七)成立の本承寺、永正元年(一五〇四)成立の本境寺など、室町中期以降に成立した寺院が多い(『若州管内社寺由緒記』)。これらを支えてきた檀越は、この時期に活発な商業活動が行なわれていた小浜を背景にして経済力をもった有力町衆が中心であった。
写真305 遠敷郡長源寺(小浜市酒井、昭和三十六年当時)

写真305 遠敷郡長源寺(小浜市酒井、昭和三十六年当時)

 法華宗の波及について京都の本寺とのかかわりでみると、妙顕寺派の妙興寺や本国寺派の長源寺の動きが活発だったが、本能寺派の本承寺や本隆寺派の本境寺などの動きもあった。これらの寺院はいずれも町衆と深い結びつきをもっていたと推定される。このことは天文十九年に本境寺の有力檀方であった関戸豊前入道を通じて「奥州戸館馬」を武田信豊が獲得していることからうかがわれ(資9 本境寺文書七・八号、「穴太記」)、本境寺の背後に日本海を媒介にして活動した小浜住人の姿をみることができる。だが妙興寺・長源寺以外では史料が少なく、全体での法華宗の動向は把握しにくい。現状では、妙興寺・長源寺の二か寺を中心にした叙述にならざるをえない。
 残された史料では京都と同様の様相がみられ、極端な表現をすれば武家・町衆の二大帰依者にわけられよう。戦国末期では、武家・町衆混在の檀越が寺院を支えていたようである。例えば妙興寺では享徳四年(一四五五)に守護武田信賢の禁制状が発給されており(資9 妙興寺文書一号)、武田氏の禁制状としては最古のものである。さらに大方殿(日野重子)の田地寄進、武田氏被官寺井家忠の所職補任状など幕府・守護家臣との深い関わりを示す(同五・七・九号など)。一方、長源寺は永享七年の開山日源による規式や、永正十一年の本山本国寺日遵の規式がある。日遵規式のなかに檀方評定衆として葛井・瀬木・瓜生など小浜の有力住人と思われる人びとが名を連ねており、これら「檀方中評定」の存在が知られ、また遠敷郡勢井村百姓からの加地子得分の集積がみられるなど町住人・農民とのつながりが強く(資9 長源寺文書)、両寺には対照的な様相がみられる。
 長源寺は大永二年(一五二二)、武田元光が後瀬山城を築き麓の長源寺を館にしたことで現在地へ移転するが、天文初年には若狭最大の権力を保持していた守護被官粟屋元隆が同寺を庇護し、同寺の発展に大きく寄与していたらしい。元隆は京都出兵のとき六条本国寺を本陣に利用するなど(『言継卿記』大永七年十一月三日条)、軍事的な関わりもあった。



目次へ  前ページへ  次ページへ