目次へ  前ページへ  次ページへ


第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
     四 法華宗の動き
      六条門流の成立
 一方、鎌倉松葉谷にあった本国寺(のち本圀寺)は同じ日朗派として法灯を受け継いでいたが、四世日静のとき鎌倉幕府は崩壊し、庇護者であった足利一族は京都へ転進した。日静は、後醍醐を破って新主権者となった足利尊氏の母方の叔父と伝えられる人物である。
 後醍醐新政下で勅願寺となった妙顕寺の弘通は急速に伸張したが、尊氏が京都を押さえるためには同宗で勅願寺に対抗できる勢力が必要であった。そこで足利氏の擁立した光厳天皇の勅定により、本国寺は六条楊梅に広大な寺域を得て鎌倉から移転した(「本国寺文書」)。これは明らかに、妙顕寺とその背景にあった町衆の強大な経済力を意識してのことと推察される。これにより本国寺は貞和元年に六条法華宗として成立し、四町四方の広大な寺域が足利直義により安堵された(同前)。ただし同年の院宣には東西二町・南北六町となっており、直義の充行状とは記載が異なる。本国寺文書は天文五年(一五三六)の法華の乱で焼失し、のちに筆写されたものであってなお検討を要するが、本国寺の状況を知る史料としては注目されよう。本国寺が六条に所在したことで、同派は六条門流と称された。
 尊氏・直義兄弟は本国寺を庇護し、延文元年(一三五六)に御影堂建立材木を寄進し、翌二年には天下静謐の祈を命じて国家的な位置づけを与えており、尊氏による本国寺崇拝意識の意識的な高揚が認められよう。 



目次へ  前ページへ  次ページへ