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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      白拍子舞と曲舞
 十四世紀から十七世紀初頭にかけて曲舞(久世舞・口宣舞・舞々・舞)とよばれる芸能が流行した。その曲舞のなかで、丹生郡田中(近世には西田中)を根拠地にした幸若舞は、最も大きな勢力をもった一派であった。曲舞は、平安末期から鎌倉期にかけて流行した白拍子舞から出たものといわれるが、詳しい実態はわかっていない。白拍子舞は拍子を主にした歌舞であったようで、曲舞もまた拍子に合わせて長い物語を舞いながら語っていくものであった。
 のちに能といわれるようになる猿楽の改革者観阿弥は、当時人気を博していた田楽の歌舞と曲舞の拍子・語りを猿楽に取り込んだ。ものまねを主体としていた猿楽が、ストーリーをもった歌舞劇として再生したのである。現在の謡曲のなかにはクセとよばれる部分があるが、これがその名残りだという。観阿弥の子世阿弥はさらに積極的に曲舞を取り込み、例えば「百万」では実在の女曲舞師百万をシテとし、「山姥」ではそれをモデルとした百ま山姥が、山姥の曲舞を作って評判になっていたという設定になっている。これらの曲舞は、世阿弥が『五音』のなかで記しているところによれば、かつては多くの曲舞師があったが、永享元年(一四二九)ころにはほとんど絶えて、わずかに南都の女曲舞師の流れをくむ「賀歌」(加賀)のみが残っていたという。以前の曲舞は、それを取り込んだ新しい芸能である猿楽に圧倒されたというのであろうか。



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