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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
     四 法華宗の動き
      越前での日像の足跡
図71  報恩寺石塔拓影(上:正面、下:裏面紀年銘)

図71  報恩寺石塔拓影(上:正面、下:裏面紀年銘)

写真302 足羽郡報恩寺石塔(福井市安保町)

写真302 足羽郡報恩寺石塔(福井市安保町)

 加賀から越前へ入った日像の動きは明確には捕捉できないが、まず足羽郡報恩寺(福井市安保町)にその足跡が認められる。当時、この地域は真言宗寺院であろうか極楽寺が存在したらしく、日像はこの寺の住僧頼尋を討論ののち改宗させ、寺号を法音寺に改めたという。現在の日蓮宗真門流報恩寺である。
 法華宗への改宗以前に確かに真言あるいは天台の寺院が存在したことは、報恩寺周辺で出土した石塔によって知ることができる。図71は石塔の拓影であるが、この表面には梵字が掘り込まれ、裏面には弘安三年(一二八〇)という造立年が記されている。石塔は明らかに密教系のもので、少なくともこの時期には密教系寺院の存在したことがうかがわれよう。日像の越前入りは永仁二年の二十八歳のときと伝えられており、石塔造立より一四年後のことである。
写真303 十界大曼荼羅(日像筆)

写真303 十界大曼荼羅(日像筆)

 それよりのちには今立郡周辺を布教したものか、現在の鯖江市大正寺町には疫病の祓いや旱魃の雨乞などで奇瑞を現わしたとの伝承があって(「日像菩薩伝記」)、文殊山麓の榎ノ木坂の大岩には日像の刻んだ法華題目が残るという。さらに南条郡今宿(武生市)では全村が法華宗に帰依したといい、ここにはのちに妙勧寺が建立されている。同じく南条郡大道(南条町)にもその波及があって全村が改宗したらしい。南条町西大道には「北陸身延山」といわれる妙泰寺があり、日像自筆の「曼荼羅本尊」(十界大曼荼羅)が今に伝承されている。
 敦賀へ入った日像は気比神宮寺の住持覚円と四六項目にわたる問答を行なったと伝えられている。その結果日像は覚円を論破して折伏させたといい、当寺は真言宗から改宗し寺号を妙顕寺に改めたと伝える(一章七節四参照)。同寺にはこのときの「開基日像菩薩・二祖覚円上人問答書」があり、また日像の坐像を安置する。



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