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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
     四 法華宗の動き
      北陸布教
 法華宗(日蓮宗)は天台宗から分立して成立した教団で、天台の迹門法華宗に対して本門法華宗と称したのが始まりという。このことは文永十年(一二七三)ころの日蓮自署に「法華宗沙門日蓮」とあることからうかがわれる。いわゆる「日蓮宗」「日蓮党」とは比叡山衆徒らが蔑称として用いたもので、教団の名称として定着するのは近世中期以降のことらしい。
 法華宗の北陸弘通は、日蓮の孫弟子である日像によって行なわれた。日蓮は鎌倉で布教を続け、京都での布教を念願としていたが果たせず、日朗の弟子日像にその夢を託したという。十三世紀後半ころの京都では、天台・真言の二大宗派が国家宗教として大きな勢力を誇示していた。加えて新興宗教の禅宗・浄土宗系の諸宗派が、武家などの権力を背景に教派を大きく発展させていた時期でもあった。
 法華宗の京都弘通は教団の存在を都に認識させ天皇に教義を奏上することにあったが、その布教に期待されたのが日像だったのである。日像は永仁二年(一二九四)に身延山久遠寺(山梨県身延町)から信州路を経て越後に赴き、日蓮法難の地となった佐渡へと廻国し、さらに能登七尾へ向かう船中で石動山天平寺(石川県鹿島町)の僧を折伏して彼の北陸布教は始まった。能登・加賀での足跡は、妙成寺をはじめとして妙法輪寺・円乗寺・本興寺・宝乗寺・妙正寺などに伝承されるが、これらの寺院はほとんど真言宗から改宗したようである。



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