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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      天台真盛派
 天台真盛派は天台僧真盛を開祖とする宗派である。真盛は寛正二年に一九歳で比叡山の西塔南谷北上坊秀慶和尚の室に入って二〇年間山を出ず、ひたすら天台教学を究めた。文明十四年の母の死を契機に世の無常を感じ、黒谷青竜寺に隠棲し、『往生要集』を講じて世に知られるようになると、ついに朝廷より法談の聴聞を望まれるまでにいたった。同十八年、比叡山下の近江坂本西教寺に入り、ここを不断念仏の根本道場として一派を創始した(『真盛上人往生伝記』)。真盛の教義は戒律を確守したため近世では天台律宗と称したが、天台宗の一派とはいいながら、その説くところは浄土教門、勧めるところは称名念仏であったため、念仏宗の一派と意識されて庶民の厚い信仰を得た。
写真299 真盛画像

写真299 真盛画像

 真盛は、生国の伊賀をはじめ近江・摂津・河内など畿内近国を中心に巡教化導した。若狭では小浜極楽寺が明応元年(一四九二)に真盛を開基として創建されたと伝える(『若州管内社寺由緒記』)。また越前では、特に朝倉氏の外護を受けて発展した。真盛は長享二年八月に信濃善光寺参詣の帰路に南条郡府中に逗留して化導にあたり、朝倉貞景も一乗谷安養寺に真盛を招いて説法を聞いた(『真盛上人往生伝記』)。そして越前布教の根本道場として府中に引接寺が創建され、真盛が府中奉行人の印牧新右衛門尉に念仏を勧めた書状も伝来する(写真300)。文政十二年(一八二九)には引接寺は広大な境内に本覚院など塔頭一一院・末寺五三か寺を有し、中山格寺院となっている(「引接寺由緒書」)。
 真盛の布教によって越前に創建された寺院は、引接寺をはじめ吉田郡岡の西光寺・今立郡新庄の放光寺・大野郡の青蓮寺と蓮光寺の五か寺であった(『真盛上人往生伝記』)。なかでも西光寺は、大畔畷の合戦(文明六年閏五月十五日の合戦か)で戦没した多くの軍兵の亡魂を追善する目的で、延徳元年(一四八九)に真盛を招請して岡の次郎丸(福井市岡保)に創建され、天正年間には北庄城下へ移転した。同じく蓮光寺は、文明七年七月二十三日の大野郡井野部郷の合戦で滅亡した二宮左近将監兄弟および軍兵の亡魂を弔うため、延徳二年に大野郡司朝倉光玖の懇請によって二宮氏館跡に創建された寺院である。朝倉貞景の帰依以来、一乗谷にも真盛門下の寺院が数多く建立された。引接寺末寺の西念寺や西新町の盛源寺、少し遅れて弘治三年(一五五七)に創立された極楽寺がこれである。
写真300 真盛書状(引接寺文書)

写真300 真盛書状(引接寺文書)


写真301 西山光照寺跡出土の石仏(福井市安波賀町)

写真301 西山光照寺跡出土の石仏(福井市安波賀町)

 一乗谷において特記すべきは安波賀に寺跡を残す西山光照寺で、長禄合戦で敗死した朝倉孝景の叔父鳥羽豊後守将景の菩提を弔って再興された寺院である(寺名は将景の法号による)。寺跡に大永二年(一五二二)の「中興盛舜上人七回忌供養塔」が残るように、当寺の中興開基は真盛の高弟盛舜である。しかし彼は真盛門下でありながら天台系の京都東山法勝寺で円頓戒を受けたため、光照寺も一時その末寺となったらしく、本寺の法勝寺が「当寺末寺越州光照寺住持盛舜」に上人号を与えられるよう朝廷に執奏している(『守光公記』永正十二年閏二月一日条)。朝倉氏滅亡後、光照寺は末寺七か寺とともに北庄城下に移るが、城下外にも数か寺の末寺を支配する中山格寺院であった。一方、光照寺の本寺法勝寺は、天正十八年後陽成天皇の勅により坂本西教寺に併合されて廃寺となった。なお開祖真盛は智善坊と称したため(『雑事記』文明十八年三月四日条)、本寺西教寺は智善院西教寺と号した。「智善院宗西山光照寺」と記載されるのはこのためである(「慶長年間北庄四ツ割図」)。近世では一貫して天台律宗の一寺として記載されるが(「越前国寺庵」『越前・若狭地誌叢書』下)、現在は天台宗延暦寺末寺となっている。
 以上のごとく、天台真盛派の諸寺院は、朝倉貞景の真盛への帰依もあって、戦国期には朝倉氏被官や多くの庶民の信仰を集めて繁栄した。現在一乗谷に残る無数の石仏群は、盛源寺境内や西山光照寺跡・極楽寺跡の石仏群のように天台律宗系のものが大部分を占め、合戦で戦死した将兵の亡魂を弔うために造立されたものが多く、親子兄弟などの肉親に対する追善供養のためのものであろう。



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