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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      浄土宗
 法然を開祖とする浄土宗の越前における弘通はあまり早くはなかったが、浄土宗の教義自体は同じ念仏宗のなかに培われて広まっていったらしい。念仏宗のなかでも比較的早く越前に浸透したのは時宗であり、遅れて関東の親鸞教義(浄土真宗)が東海地方から美濃・越前穴馬谷を経て越前に伝播してきた。すなわち下野高田派の如道や信性らが三河から来越し、なかでも三門徒教団の祖とされる大町専修寺の開祖如道は秘事法門という新義を唱えたとされるが、この如道教団の行義は時宗のほか浄土宗西山義の影響を強く受けており、これを背景としてか、のちに如道の門下から浄土宗寺院が分立するのである。
写真298 西福寺敷地差図

写真298 西福寺敷地差図

 如道の法脈を継ぎ大町専修寺の住持となった如浄は如道の二男といわれ、如道の長男良如は浄土宗鎮西派に帰依して南条郡府中に正覚寺を創立したといわれる(「中野物語」、「越前三門徒法脈」)。すなわち正覚寺は、浄土宗浄華院八代敬法に帰依した良如が、南北朝期に斯波高経の拠った府中の新善光寺城(『太平記』巻一八・一九)跡を寺地として貞治五年に建立したもので(「大西山正覚寺開山良如上人略記」)、府中近辺の念仏衆が当寺を擁立したものと考えられる。そののち良如はその法弟の良信に正覚寺を譲って、応安二年(一三六九)には敦賀郡原に西福寺を建立した(「中野物語」、「越前三門徒法脈」)。当寺に同年十一月十五日付の山内重経の敷地寄進状が伝来するから(資8 西福寺文書四号)、敦賀郡野坂荘櫛川郷の地頭山内氏の氏寺としての性格ももちながら建立されたらしい。明徳元年(一三九〇)には崇光上皇の勅願所、応永三十年には足利義持、永享二年(一四三〇)には足利義教の祈願所となって寺格を高め、国主・領主の厚い外護を受けた。中世は京都浄華院(清浄華院)、近世は同黒谷金戒光明寺、近代は京都知恩院と本山を変えたが、塔頭寮舎は天正年間(一五七三〜九二)以前に上塔院など二四院以上、近世中期に一五院、末寺は明治期に五〇余か寺を数える大坊であった。なお良如の去った正覚寺も府中一帯の中心的浄土宗道場として栄え、天保二年(一八三一)の記録では、摂取院など塔頭八院・末寺一〇か寺を支配する大坊に成長している。
 敦賀において、西福寺と並ぶ鎮西派の古刹に善妙寺がある。もと気比宮神宮寺中の釈迦寺が、正元元年(一二五九)空覚のとき改宗して現地に移ったものという(「敦賀志」)。明徳五年(一三九四)二月日付の棟忠田地寄進状に初めて寺名がみえ、応永三年には守護斯波義将が七か所の寺領を安堵している。永禄元年(一五五八)の善妙寺寺領目録によれば、一四の塔頭・寮舎を有する大坊であった(資8 善妙寺文書二・三・一二号)。
 一方、朝倉氏の居城一乗谷も浄土宗布教の中心となり、鎮西派一乗寺・真照寺が存在した。両寺ともに鎌倉期の源智による創建と伝えるが(「一乗寺明細帳」、「真照寺明細帳」)、真照寺は中世には一乗寺の末寺とされており、一乗寺より分立したものと考えられるから、一乗寺は少なくとも文明以前の室町期に創建されたものであろう。一乗谷の地名も、この一乗寺より生まれた可能性がある。両寺は朝倉氏の滅亡後、足羽郡北庄に移った。
 開祖法然の死後、門下は教義上の分裂をおこして大きく四流に分立したが、浄土宗の本流は京都知恩院を本山とする鎮西派で、以上述べた越前の浄土宗寺院もすべて鎮西派寺院であった。これに対して京都禅林寺・光明寺を本山とする西山派も一乗谷に進出し、文明五年朝倉孝景の帰依によって安養寺が一乗谷東新町に建立された。長享二年(一四八八)八月には朝倉貞景が当寺で真盛から説法を受け(『真盛上人往生伝記』)、天文十六年(一五四七)と翌十七年には当時一乗谷に寄寓していた儒者清原宣賢が当寺で『大学章句』や『中庸』などを講じている(京都大学所蔵「大学章句」奥書)。また永禄十年十一月に朝倉氏に身を寄せた足利義秋(義昭)が安養寺に入り、翌十一年七月に美濃の織田信長のもとへ去るまでの九か月間は室町将軍家の「御所」となるなど(「朝倉始末記」)、当寺は学問所や迎賓館としての機能も合わせもっていた。天正三年北庄に移り、近世は西山派檀林の小本山の寺格を有し、加賀・越前の当派寺院の触頭となった。
 近世に入ると、浄土宗は徳川家一門の宗旨となり幕府の厚い保護を受けた。越前においても慶長十二年(一六〇七)の福井藩祖結城秀康の死後、徳川家の命により京都知恩院満誉の弟子万清を開山として秀康の菩提所の浄光院(宝永六年に運正寺と改号)が建立され、以後、福井藩領内鎮西派寺院の総触頭となった(通3 五章一節二参照)。
 若狭に関しては、伝播・布教の様子について具体的に明らかではない。寺院としては、永享元年に小浜青井に誓願寺が建立され、戦国期に入って同じく青井の地に心光寺・専心寺・常然寺・浄安寺が創建されたといい、天文年間(一五三二〜五五)には大飯郡高浜に常然寺末西福寺と心光寺末浄国寺が開創されたと伝える(『若州管内社寺由緒記』)。



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