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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      時宗
 諸国を広く遊行して時宗の布教に努めた開祖一遍智真は、弘安二年(一二七九)越前にも廻国したとされるが、越前の時宗寺院のほとんどが二祖真教(他阿弥陀仏)に帰依して開創したと伝えるように、越前における本格的な布教は、この他阿真教に始まる(一章七節三参照)。他阿真教は正応三年(一二九〇)夏に南条郡府中(武生市)の惣社に参篭し、十二月にも惣社よりの請に応じて社頭に歳末別時念仏を行ない近郷を化導した。翌四年十二月さらに翌五年秋にも惣社に参篭したため、ついに平泉寺衆徒の干渉を招き、その乱行によって加賀に移らざるをえなくなった。そののち正安三年(一三〇一)には敦賀に進出し、真言宗より改宗した西方寺に入って、ここより気比社に参篭したが、当時の気比社と西方寺との間には参詣の妨げとなっていた沼沢があったため、真教は気比神人・衆徒とともに、土砂を運んで参道を造成した(「一遍・他阿上人絵伝」)。これが歴代の遊行上人廻国時の「お砂持の神事」となって今日まで続いている。
 歴代の遊行上人の布教は、諸国を廻国しながら念仏を勧進して賦算(念仏の札を配ること)を行なうことによって進められた。これによって確実に増加した時衆の分布とその動向を知る有力な史料として、南北朝期から室町前期にかけて順次記載されてきた『時衆過去帳』(神奈川県藤沢市清浄光寺所蔵、正保二年に敦賀西方寺から移管)がある。各法名の多くに国名や在所名・俗名などが裏書きされており、越前の門徒関係の法名も検証できる。それによれば、越前における時衆分布は坂井郡長崎称念寺を中心とする長崎衆の法名が最も多く、そのほか坂井郡から吉田郡にかけて河川沿岸の「三国湊」「金津(六日市)」「浪寄(波寄)」「勝蓮花」「河合庄」などに分布し、「越前堀江」「越前引田入道」などの国人名や「長崎念珠屋」の商人名もみえる。また今立・南条郡では「越前国府」を中心に「越前池田」、足羽郡では「越前中野」「越前木田」「江守」や「越前吉野」(吉田郡か)などの在地名もみえる。
 このように、『時衆過去帳』によって知られる時衆信徒の越前における分布と合わせて検証すべきことは、時宗道場寺院の成立状況であろう。時宗末寺帳としては、寛永十年(一六三三)の「時宗藤沢遊行末寺帳」(内閣文庫蔵)などがあるが、特に注目したいのは京都七条道場旧蔵本の「遊行派末寺帳」である。この末寺帳は享保六年(一七二一)の筆写であるが、他の末寺帳とは異なり、すでに中世末から近世初頭に廃寺となった八か寺の末寺名も記載されており(表68)、寺名に付記されている在地名が『時衆過去帳』の法名裏書の在地名とほぼ一致することにより、中世の時宗寺院を改めて確認することができる。これら寺院が漸次に衰退し廃寺となっていった背景に、文明三年の蓮如に始まった本願寺による越前布教のあることはいうまでもない。

表68 越前の時宗寺院

表68 越前の時宗寺院


写真297 坂井郡称念寺(丸岡町長崎)

写真297 坂井郡称念寺(丸岡町長崎)

 なお現在に残る時宗寺院の多くは中世に系譜を有するものと思われるが、史料が乏しく確認できない。中山格寺院の今立郡岩本成願寺も他阿真教の遊行による帰依とするが、中世における活動は明らかでない。同郡菅谷の積善寺は、朝倉敏景(孝景)の出陣を祝して連歌を呈した時宗僧としてみえている(「朝倉始末記」)。
 越前における時宗の古刹坂井郡長崎称念寺は、近世には塔頭一〇軒・末寺一四か寺を擁する大坊で(「各派別本末書上覚」)、広大な境内は今にその風格を残している。当寺は養老五年(七二一)泰澄の草創と伝え、正応三年他阿真教の化導によって時宗に改宗されると、称念房・仏眼・道性の有徳人兄弟によって伽藍が建立され、称念房は寺号となり、仏眼・道性は光明院倉を建て称念寺の財政を支えたという。真教は当寺の後事を証阿に託して遊行にでるが、証阿はのちに薗阿と改めたという(資4 称念寺文書四号)。初代の薗阿は真教の入寂と同年の元応元年(一三一九)に死没するが、以後の住持は歴代薗阿を襲名して『時衆過去帳』にも記載されている。このように越前における時宗布教の中心道場となった当寺は、長禄二年十二月二十六日に将軍足利義政から祈願所の御教書と寺領・塔頭領の安堵惣目録が与えられ、寛正六年(一四六五)にも後土御門天皇から祈願所の綸旨を受け、以来、朝倉・柴田氏など歴代国守・領主の保護を受けた(同二・三・六号など)。
 称念寺は境内に新田義貞の墓があることで著名であるが、南北朝の抗争のなかで、南朝は時宗との関係を深めていったらしい。後醍醐天皇の血統をもつ尊観が遊行十二代を継承しているのも、これによるものと思われる。したがって南朝方の新田義貞が陣僧として時衆をともなったのは当然のことで、遊行七代託何(宿阿)の初賦算地を「暦応元年四月十九日、越前河井(河合)往生院」としているのは(「遊行藤沢歴代系譜」)、年次から推しておそらく新田義貞の陣僧中の一人であったからと思われる。そして暦応元年の閏七月二日に藤島の灯明寺畷で戦死した新田義貞の遺骸は、「輿ニ乗セ時衆八人ニカゝセテ、葬礼ノ為ニ往生院ヘ送ラレ」とあり(『太平記』巻二〇)、その往生院こそ、義貞の本営石丸城の近辺にあったと思われる吉田郡河合荘の往生院のことであろう。従来この往生院は長崎称念寺と同一視されていたが、称念寺の歴代が「薗阿弥陀仏」であったのに対し、往生院の住持名は「時阿弥陀仏」と記載されているから(「時衆過去帳」)、別寺であることは明らかである。義貞の戦死後に義貞の近習であった斎藤五郎兵衛尉季基・同七郎入道道献の二人が「出家シテ、往生院、長崎ノ道場ニ入リ」と述べられているのは(『太平記』巻二〇)、往生院が長崎(称念寺)の下道場であったからと思われ、中世末期に往生院が衰退して称念寺に併合されると同時に義貞の墓も称念寺に移転し、以降は往生院称念寺と称するようになったものであろう。
 若狭における時宗の活動については、『時衆過去帳』に関連記事がみえないなど詳らかではない。室町期の応永七年(一四〇〇)に時衆が代官として守護領であった多烏・汲部両浦へ入部し数十日間滞在したさい、接待費などを不当に課したなどとして両浦百姓により訴えられているが(秦文書一〇四号)、この時衆の活動は布教とは直接関係をもつものではないと思われる。寺院としては遠敷郡小浜の西福寺や真言宗から改宗したと伝える浄土寺、大飯郡本郷の称名寺が知られ、いずれも遊行七代託何の弟子覚阿弥を開山としており、南北朝期ごろに創建・改宗されたものと推測される。そのほか小浜では応永十二年に建立されたと伝える称念寺・西林寺がみえ、大飯郡でも石山浄土寺が真宗に改宗する戦国期末までは時宗寺院であったという(『若州管内社寺由緒記』)。若狭では南北朝から室町初期のころに、日本海交易の中心港の一つであった小浜を中心として、佐分利川舟運の起結点にあたる本郷や、遠敷郡名田荘坂本と大飯郡高浜とを結ぶ山越えの道が佐分利川と交差する石山など、交通・交易の要所と考えられる地点に時宗寺院が創建されていったことが知られる。



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