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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      若狭の真宗
 若狭における真宗の勢力は、隣接する越前・近江と比べて格段に弱い。小浜市および三方町・上中町・名田庄村などには点在しているものの、三方郡や大飯郡などではほとんど存在しない所もある(表66)。若狭の真宗寺院の由緒書をみると、越前の場合とは逆に、真宗系諸門流の展開した痕跡はほとんどうかがうことができず、それと対照的に本願寺の覚如・善如・綽如・巧如などへ帰依し改宗したという伝承を有する寺院が多い。本願寺歴代への帰依伝承が記されている理由は、荒木門流をはじめ他の真宗系諸門流との接触の契機すら存在していなかったことの反映と推察することができる。また地理的条件からみても、白山系阿弥陀信仰の影響度より、天台宗比叡山延暦寺や真言宗の影響度の方が強かったことだろう。
 蓮如は文明七年に吉崎から退去する途中、小浜から遠敷郡にかけての一帯で数十日間滞在した。この一帯の寺院には、そのときに帰依・改宗したとの伝承が多々見受けられる。若狭の真宗は大名権力による一向宗禁制をこうむらなかったので、本尊・画像・御文証判類などの法物類は意外と多数残存している。
 若狭の中心寺院は、聖徳太子立像を安置する他力堂から出発した小浜妙光寺である(「太子略縁起」)。同寺は覚如あるいは綽如への帰依伝承をもち、末寺・道場だったと推定される寺院は少なくとも六か寺ある。戦国期には石山本願寺への御堂番の役を担っている(『天文日記』天文十年三月九日条など)。また本願寺の前住実如忌の斎頭役を担う主体として「若州衆」単位が設定されているが(同 天文二十一年十月二日条など)、その中心的担い手は妙光寺だったに違いない。同寺は足利将軍家や若狭の歴代守護家から寺地の安堵を受けており(資2 松雲公三〜五号、資9 妙光寺文書、『小浜市史』史料総括編)、また武田氏と本願寺との使者として活躍している点からみて、他の北陸諸国の大寺院とは異質な、東国・西国にまま見受けられる領主の保護を受けている寺院と推測される。
 若狭の場合は、越前より近江との関係が密接である。妙光寺の旧所在地と伝えられる瀬木(小浜市玉前)の地は「本福寺門徒若佐(狭)ノ小浜ノセギニ道場、太郎ト云、人数三十人計」とみえ(「本福寺門徒記」『本福寺旧記』)、湖西の堅田門徒がいた地でもあった。また逆に妙光寺は「江州高嶋郡音羽庄打下」に門徒を有している(打下浄照寺蔵明応三年四月付方便法身尊形裏書『高島町史』)。永正十八年に実如が「明誓門徒田中郷南市」(滋賀県安曇川町)の空了へ下付した方便法身尊形が名田庄村妙応寺に現存するのも(『わかさ名田庄村誌』)、近江との関係が深かったことを物語る一例であろう。また、「慈敬寺へ、若狭国与力すべきの由、仰せ出され候」との記事もある(「私心記」永禄元年十二月九日条『日本仏教史学』四)。本願寺宗主の庶子一族寺院である近江堅田慈敬寺へ、従来からの湖西の門末のほかに、若狭の門末も与力として組み込むというのである。この一体化の措置も、おそらくは近江・若狭両国の地理的・歴史的関連性を反映したものであったのだろう。



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