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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      戦国期の高田派の分裂
 戦国初期、高田派に真恵が登場する。ちょうど本願寺蓮如が登場し活躍する時期と一致し、やがて両派は激しい対立状態に突入する。加賀の高田勢は長享二年(一四八八)の一向一揆によって滅亡したが、越前はその逆で、永正一揆の敗北によって本願寺系の寺院勢力が壊滅してしまった。しかし越前で高田派が隆盛をきわめようとする間もなく、高田派内を二分する深刻な抗争が始まった。真恵の子である応真は当初継職を辞退したため、常盤井宮の子の真智が真恵の後継者となる予定となっていた。ところが永正九年に真恵が没したのち、応真(天文六年京都柳原寺で没)は意を翻し、高田専修寺の住持職の綸旨をもらい受けて諸国の末寺に自己のもとへの参集を求めた。真智も同様に綸旨を受け、両派は自己の正当性を訴えて朝廷・幕府・大名・各地の領主などからの認知・保証を受けることに奔走し、さまざまな世俗の諸権力の介入を許していった(資5 法雲寺文書一四・一七・一八号など)。
写真296 丹生郡法雲寺(越廼村大味)

写真296 丹生郡法雲寺(越廼村大味)

 越前の高田派有力各寺は、両派のどちらに与するかの選択を迫られた。坂井郡角屋専光寺(芦原町)からは永正以前に加賀国山代専光寺(大谷派)・坂井郡三国台智敬寺(大谷派)が分立していたが、永正以降は加戸松樹院(応真系)が分立し、やがて角屋専光寺は廃寺となり、その名跡は坂井郡井江葭安養院(現芦原町二面)に受け継がれる(『坂井郡誌』、『坪江の郷土史』、『加越能寺社由来』下)。専性開基の大野郡今井専西寺は真智方に与し、応真方の大野郡友兼専福寺が分立する。なお専西寺は近世にいたり仏光寺派西応寺となる(『大野市史』図録文化財編)。結局真智方には丹生郡風尾勝鬘寺・坂井郡新郷専光寺・坂井郡兵庫西林坊(のち中川西光寺)・大野郡中挟専西寺の四か寺が与し、称名寺など残りの寺院は応真(のち尭恵)方についた。応真方は朝倉氏などに働きかけて真智派四か寺の動きを牽制するが、真智派四か寺はそれに対抗しそろって平泉寺の末寺になるなど(資5 法雲寺文書二六号)、一致した行動を取り続けている。越前は他国と比べ応真派が多いものの、三河とならぶ真智派の最有力基盤でもあった。ともあれ戦国期の高田派は激しい派内抗争に明け暮れ、それに全精力を使い果たしていったのである。
  真智はいつのころからか兵庫西林坊へ下向し、永禄末期ころに朝倉義景より坂井郡熊坂に寺地の寄進を受け(同二四号)、下野国高田・伊勢国一身田と同じ寺号の専修寺を建立した。熊坂こそ本山との意志表示である。天正十三年(一五八五)真智が没すると、熊坂専修寺の勢力は急激に衰えていった。近世初頭、熊坂専修寺は丹生郡畠中村へ寺基を移し、寛文年間(一六六一〜七三)には伊勢一身田専修寺との争いに破れて破却され仏光寺派へ、ついで大谷派へ変わり、丹生郡大味へと移る(同五八号)。大味法雲寺蔵の親鸞・顕智以来の歴代上人の法物類の存在は、同寺があるいは高田派本山になる可能性もあったことを今に物語っている。
 この分裂抗争の原因であるが、真恵は自らの集団を「法然上人末流」「浄土宗下野流」と自称している(寛正六年六月日付専修寺越前末寺門徒中言上状案・永正十八年六月二十七日付後柏原天皇綸旨「専修寺文書」『集成』四)。その一方で、各国の有力末寺は「毎年三月八日」に本山へ出仕すべき誓約も行なっている(永正十五年七月二十三日付松樹院定如等連署状『集成』四)。この月日は、親鸞や法然の忌日ではなく真仏の忌日である。高田門流は依然として善導・法然・親鸞・真仏・顕智などの法脈上の複数祖師を戴き、選択的な教義を構築できない段階だったのである。もっともそれはそれで広範な浄土系念仏諸集団をくまなく吸収しうればよいのであろうが、祖師や代表者を絞り込まない限り、個別的な主従関係を強めようとする地方大寺院の自立志向の動きを阻止することはできない。中心軸となるべき本山も、下野高田専修寺・伊勢一身田無量寿寺(のちの専修寺)・近江坂本妙林院(天文十年九月十八日付長野稙藤書状『集成』四)・越前熊坂専修寺と群立状態になっている。本山も末寺も群立・自立状態のままで本山への結集をいくら呼びかけ続けても、組織的な教団化は事実上不可能であった。



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