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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      諸派の帰趨
 三門徒系の本寺たる大町専修寺では時の住持がにわかに還俗したため、石田西光寺永存の三男で三河勝鬘寺(愛知県岡崎市)の高珍蓮光の女子をもらい受けていた蓮慶が入寺した(「反古裏書」)。勝鬘寺の祖である信願は如道と兄弟弟子の関係にあったため、勝鬘寺は如道系の関係寺院とみなされていたのだろう。この蓮慶の入寺により、古刹大町専修寺はここに本願寺系寺院として復興されることになった。大町門徒団は一向宗が禁止されていた戦国期にも唯一本願寺の斎頭役(仏事・法要を司る役)を担っており、かなりの勢力を有する存在であった。大町専修寺は天正一揆で廃絶して名跡は坂井郡勝授寺(三国町)に受け継がれるが、旧蔵法物類は北陸一帯の各寺に分散している(「越前三門徒法脈」)。石川県中島町常光寺蔵の無碍光本尊は大町専修寺の遺物といわれている。
 横越証誠寺の兼慶(のちに玄秀)は文明三年に吉崎の蓮如のもとへ参じ、毫摂寺善鎮も文明四年あるいは同十年以後に蓮如のもとへ参ずる(「反古裏書」、「一流諸家系図」、陽願寺文書六号『武生市史』神社・仏寺文書編)。このため、証誠寺・毫摂寺系の人びとも親本願寺系となっていった。鯖江誠照寺は、蓮如の吉崎滞在中に「大略帰参」したとか、京都の常楽寺蓮覚のもとへ参じたとかいわれる。もっとも誠照寺はそののち再び「秘事」に戻ったといわれ(「反古裏書」)、毫摂寺も永正年間(一五〇四〜二一)の後半には本願寺のもとを離れ、京都仁和寺門跡の門下となっている(「永正十三年八月日次記」永正十七年十一月十五日条)。ともに永正三年(一五〇六)の一揆敗北の結果をふまえた動向と推察される。
 高田系から本願寺系への改派例としては、坂井郡加戸円福寺(本流院)から同郡岩崎信行寺が(『仏教風土記』下)、折立称名寺から今立郡橋立真宗寺(鯖江市)が、足羽郡栃泉法光寺(福井市)から今立郡松成満願寺(鯖江市)が(『鯖江市史』諸家文書編一)、佐塚の専性の系統から大野郡上据最勝寺(大野市)がそれぞれ分立し、本願寺系となった。そのほか、美山町浄願寺・鯖江市蓮光寺・越前町蓮光寺・越廼村専徳寺なども高田系からの分立という由緒をもっている。注目すべき点は、三門徒系の場合には本寺級の大坊主が配下の門末を引き連れて参入しているのに対し、高田系の場合は個々の寺院からの分立という形をとっている点である。これは高田派寺院がある程度強固な結集意識を保持していた証拠といえよう。



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