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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      本願寺一族の繁出
 南北朝期の覚如以降の本願寺は、親鸞廟所から脱却して天台浄土系の寺院化を指向していたが、自らの末寺を創建し育成させようとする方向性は有していなかった。事実、末寺の由緒書のなかに大谷一族の誰かを始祖とするという伝承は皆無といってよい。例えば、石川県小松市興宗寺の九高僧連坐像の法系は「入西―西仏―行如」と記されており、行如の師にあたる西仏は常陸法善門下で信濃康楽寺の祖とされる人物であった(『加賀市史』通史上巻)。したがって、蓮如の登場とともに本願寺系として活躍する寺院のほとんどは、それ以前には他の諸門流に属していたことになる。覚如・存覚の代に先述の大町如道・興宗寺行如や「和田ノ信正(信性)」の帰依があったといわれるが(「反古裏書」)、おそらく一時的な接触・交流というのが真相であろう。
図70 本願寺一家衆関係略系図

図70 本願寺一家衆関係略系図

 本願寺系の進出は、本願寺歴代の庶子一族の繁出という形をとって進んでいく。越前での第一歩は、足羽郡和田郷西方の本覚寺(現在は吉田郡上志比村に所在)から始まる。同寺では信性没後に長男と二男とが対立し、長男は寺から退出した。しかしその長男が早世したため、門徒衆は本願寺六代巧如の弟である鸞芸頓円を後継住持に招請した(同前)。やがて戦国期に越前教団を本覚寺とともに主導することとなる、吉田郡藤島超勝寺(福井市)の誕生である。藤島の地には戦国期の有力寺院たる坂井郡久末照厳寺(金津町)・砂子田徳勝寺(のち福井市了勝寺、藤島荘重藤は了勝寺の土門徒の地)の寺基も存在していたことがあったらしく(「照厳寺系図」『越前集成』)、一種の「古聖地」とみなされる。
 ところで頓円の子如遵は「ヨロツ父ノ道ヲマナフ事マレ」な状態で、その子巧遵も「法流ニウトウトシ」と批判されており(「反古裏書」)、おそらく蓮如の吉崎下向時までは依然高田系に属していたのだろう。一方の本覚寺はすでに存如の代に「三帖和讃」などの各種聖教・典籍類の下付を受けており(「遺徳法輪集」『集成』八)、本願寺血縁の寺である藤島超勝寺より一歩早く本願寺系に属したものと思われる。
 超勝寺住持となった頓円の弟に玄真周覚という人物がいた。彼は旧本覚寺門徒団により、「法流ツフサナラサリシ」頓円に代わって「申ウケラレ」たという(「反古裏書」)。吉田郡荒川興行寺の誕生である。一説には応永年間(一三九四〜一四二八)のことといわれる(興行寺蔵「由緒書」『越前集成』)。その周覚の子孫は頓円系以上に広く繁出していく。すなわち長男永存は丹生郡石田西光寺(鯖江市)を創建し、長女・二男は時衆となり、二女は照護寺良空の妻となる。足羽郡稲津桂島に所在した照護寺(福井市)は六角堂とも称され、越前の守護代たる甲斐一族が住持していた非本願寺系の寺であった(「反古裏書」、大谷大学蔵「親鸞奉讃奥書」)。三女は存如の弟でもと山門の僧侶だった宣祐如乗に嫁ぎ、加賀二俣本泉寺に住した。四女は先述したように当時今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、四男は平泉寺に入り、五男は斯波氏に属し、六男は毫摂寺善智の養子となっている(「日野一流系図」『集成』七)。
 蓮如期以前の本願寺庶子一族には、本願寺門流への帰属意識は存在していなかった。血縁と法縁とは別との認識である。福井市成福寺の「由緒略記」は「玄真(中略)法流ヲ天台ニ酌ミ、(中略)五代目乗玄マデ代々天台ノ教ヘヲ遵法」すると記してはいるが(『越前集成』)、真宗に酌むとは記していない。入寺した庶子たちに関する本願寺側からの記述があまり好意的に描かれていない理由がここにある。招請する側も、養子入りはもっぱら天台宗青蓮院系寺院の「貴種」をもらい受けたとの認識だったのだろう。他派の寺院に入寺していた本願寺庶子一族が本願寺のもとへ結集し始めるのは、蓮如が長禄元年に本願寺住持となり一宗創立を決意したあとであった。庶子一族の参入によって本願寺派の勢力は一挙に拡大するにいたる。蓮如は各地の一族の要の諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図っていった(図70)。



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