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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      三門徒の特徴
 門流段階では、擬似同族的な「衆」としての結集状態であり、本寺・末寺という支配・被支配関係はいまだ主流にはなっていなかった。中野専照寺一老の地位にあった丹生郡西大井専蓮寺(鯖江市)の「縁起」(宝暦八年以後成立)は「島津山専光寺者、(中略)信長治世迄、無本寺也」と記し(専蓮寺文書二号『鯖江市史』諸家文書編二)、丹生郡片屋光照寺も慶安二年(一六四九)の「口上書写」で無本寺と主張している(光照寺文書四号『武生市史』神社・仏寺文書編)。おそらく同族だからとの理由であろう。仏教史のうえで、人師と仏との分離、祖師の特定、祖師の教義のみの叙用、特定の専修仏への結集を初めて主張したのは本願寺八代の蓮如であり、現代に通ずるこの「宗派」としての指標が他派にも援用され定着していくのは近世に入ってからであった。中野系ではようやく十七世紀末の元禄期にいたり、親鸞を排し開基を如道一人に絞り込んでいる(「専伝寺転派顛末記」)。そして、福井市南江守仏照寺の由緒書に「中興右高田宗より三門徒派ニ改参(中略)又浄土真宗ニ属シ、則汁(渋)谷仏光寺之末寺ニ罷成」と記されるように(資3 仏照寺文書一七号)、各派を包括する「真宗」という共通概念が一般化するのはさらに遅く、実に近世末から近代にかけてであった。
 さて三門徒は「ヲカマス(拝まず)ノ衆」であったことが知られている(「反古裏書」)。いわゆる「不拝秘事」である。確かに本来の阿弥陀如来は「イロ(色)モナクカタチ(形)モマシマサヌ」ものであり、拝む対象仏の存在を否定するのも一理ある。しかし三門徒は、代わって「善知識」を拝む方向へ傾斜していった(「越前三門徒法脈」、「反古裏書」)。誠照寺には、室町初期の作と推定されている二四光明十二化仏つきの「中将姫蓮織曼荼羅」がある(『真宗の名号と影像』)。大和当麻寺の中将姫の説話は浄土宗西山派禅林寺がさかんに講説して回ったといわれており、西山派の『竹林鈔』によると、「善導念仏シ給時、口ヨリ仏ノ出タマフ(中略)我等カ唱ル念仏ノ息モ、同ク仏体ナルヘシ」と、善知識がそのまま仏であると主張する。中世において高僧の画像を本尊と称する例は多く見受けられ、師匠・善知識が仏であるとの認識は(「真恵上人御書集」三『集成』四)、むしろ一般に広く認知されていた見方であった。例えば福井市専超寺(もと専照寺末、現本願寺派)にも口中から化仏が飛び出している善導画像がある。仏と同質の高僧が輩出し続ける限り、多数の先師を内包しながらも集団は新たな人師を中心に分裂を重ねていき、分裂後の教線は局地的になっていく。三門徒の分裂と不拝秘事・善知識だのみは表裏の関係にあったのである。各集団内部での選択・淘汰を経て近世にいたり、専照寺・証誠寺・誠照寺・毫摂寺の四か寺がようやく本山としての地位を確立する。
 ところで三門徒系の一部には、祖師と経典の選択化・固定化を進め、宗派化の直前段階にまで到達せんとする小集団も存在していた。それが三門徒各派のどの系統に属するものかは明確でないものの、「如道ノ義流ニハ、死人ニ時ノ衣類ヲ着サセス、ユアミ(湯浴)サセス、忌日ニ魚鳥等ノ食事ヲ忌マズ、没後葬礼等ノ儀式カロクセヨ」とあり(「越前三門徒法脈」)、文明七年(一四七五)と推定される福井市浄得寺蔵の蓮如の御文写にも、彼らのことを「(親鸞の)和讃・正信偈ハカリカ肝要、阿弥陀経モ読マス、六時礼讃ヲモ勤行セス、念数モツヒトナシ、(中略)一遍ノ念仏モマフ(申)サス、師匠ノ報謝ノ志ハカリナリ」と記している(「三十六通御文集」、『蓮如上人遺文』真偽未定分九)。
 本願寺は七代存如のころからこの三門徒の一部と接触をもっており、蓮如もおそらく彼らから多くのことを学んだはずである。戦国期の古日記類には「一向」という文言が頻繁に使用されている。全くといってよいほど駄目なという、一種の否定的な枕詞である。この「一向」という否定語には、旧時代の秩序や価値観を引き裂いていこうとする力強さやひたむきな姿に対する恐れや畏敬が入り交じった複雑な気持ちも包含されている。「一向」という言葉は動乱期の時代相を示すにふさわしい名称であり、右にみた一部の三門徒系の集団こそ、「一向衆」を冠するに最適の集団であった。



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