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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      三門徒系の展開
 三門徒各派は、大町如道を共通の始祖とする。彼もまた、三河と関係の深い人物であった。「反古裏書」や各種の「親鸞聖人門侶交名牒」および愛知県岡崎市願照寺・同勝蓮寺・福井市中野専照寺・武生市片屋光照寺蔵の先徳連坐像などから法脈上の師弟関係図をみると、まず親鸞面授の弟子である常陸国真壁(茨城県真壁町)に住んだという真仏聖に始まり、真仏の弟子に遠江国鶴見(浜松市)あるいは池田(静岡県豊田町)に住んだともいわれる専信坊専海がおり(三重県津市専修寺蔵「教行信証」奥書『集成』一)、専海の弟子に三河国碧海郡和田(愛知県岡崎市)の円善がおり、大町如道はこの円善の弟子と位置づけられている。円善については、「三河念仏相承日記」や光薗院本「親鸞聖人門侶交名牒」(『集成』一)や宝永二年(一七〇五)成立の「越前三門徒法脈」(『集成』四)では、高田門流の代表者である真仏や顕智との親密さが記載されているが、法脈上の師弟関係図のなかには顕智・専空などの高田門流の代表者が一度も登場していない。師弟関係図に登場する真仏とは、高田門流の祖である真壁の真仏でなく、 写真295 先徳連坐像(九祖囲)

写真295 先徳連坐像(九祖囲)

荒木門流の祖である常陸国大部(水戸市、福井市浄得寺蔵「真仏上人御俗姓」では常陸国横添)の平太郎真仏なのであろう。加賀国松任本誓寺蔵の先徳連坐像の銘は「顕智―専空―信性―円寿」と、また大野郡和泉村浄楽寺蔵の先徳連坐像の銘は「顕智―専空―円寿―信性」となっている。仮にこの円寿を円善の誤記とみなしても、願照寺・勝蓮寺・専照寺などの連坐像の銘に記されている円善と、本誓寺・浄楽寺蔵の銘に記されている円寿(円善)とでは、前後に位置する師弟の名が違っており、円善と円寿(円善)は所属門流の異なる別人であることは明らかである。鎌倉期の三河は専海らの荒木門流が教線を拡げた地域であったが、三河の諸寺は鎌倉末期ごろにはそろって円善のもとを離れて高田門流に属するようになった。大町如道の系統は、三河において衰退に向かいつつあった荒木門流の和田円善に直接連なる一団に属し、一方、先にみた和田慶円・信性の系統は、荒木門流から高田門流へと転身し隆盛を迎えようとする一団に属していたのである(図69)。
図69 越前三門徒関係系図

図69 越前三門徒関係系図

 もっとも南北朝ころは、ある師から法脈を伝授されても、その故をもって特定の門流内に固定され続けるという状況下にはなかったらしい。如道は応長元年(一三一一)に越前へ下った本願寺三代の覚如から『教行信証』を伝授されているが(『存覚上人一期記』)、至徳二年(一三八五)成立の「証誠寺申状等写」(福井市専超寺蔵、『集成』四)によると、「真言宗四度ノ潅頂ヲトゲ」てもいる。暦応四年(一三四一)の如道の死去にともない(『新編岡崎市史』中世)、彼の跡の足羽郡大町専修寺は二男如浄が継承し、長男良如は南条郡府中正覚寺と敦賀郡原西福寺(浄土宗清浄華院流)の開祖となり(正覚寺文書五号『武生市史』神社・仏寺文書編)、三男浄一は中野道場(福井市中野、のちの専照寺)を建立し、四男正通は丹生郡片屋光照寺(旧誠照寺派、現仏光寺派)の祖となった(「越前三門徒法脈」)。なお中野浄一は、如道高弟の今立郡帆山誓願寺(武生市、のち今立郡上河端新出)の開基である道願の子との説もある(「中野物語」、「一向専修一流正伝出血脈」)。
 大町専修寺を継いだ如浄(一三八一年没)は、宝永二年成立の「中野物語」や「証誠寺申状等写」によると、やがて浄土宗小坂義(「新儀諸行往生之義」)へ傾斜し、そのため如浄のもとから道性らの「一向専修念仏往生義」の者たちが分裂し、続いて三代目の良金(了泉)のとき中野系の者たちが離れて(元禄期成立「専伝寺転派顛末記」では永享七年とする)、如道直系の大町専修寺は衰微していった。中野系の者たちは親鸞忌日に「精進」を行ない、朝夕の勤行のときに正信偈・和讃を読誦していたが、本願寺六代の巧如から関係を絶たれ、本願寺覚如の高弟乗専を祖とする京都出雲路の毫摂寺や真言宗の教義を受容していったといわれる(「専伝寺転派顛末記」、「越前三門徒法脈」『集成』四)。
 横越証誠寺の祖である道性は三河の出身で、如道の子とも道願の子ともいわれ(「大谷遺跡録」『集成』八、「越前三門徒法脈」『集成』四)、当初は大町門徒の一員であったが(「存覚袖日記」文和元年三月条)、今立郡山本荘に引き分かれ一派をなした。道性の長男は証誠寺を継ぎ、二男如覚は父と不和になり鯖江に誠照寺を分立し、三男道幸は今立郡上河端常楽寺(鯖江市、誠照寺系)の祖となった(「中野物語」)。誠照寺の祖となった二男如覚は本願寺覚如の兄で京都常楽寺の祖である存覚の門弟でもあったが、やがて「邪義の骨張と成」ったため、本願寺はいつしか誠照寺との友好関係を絶ったという(「反古裏書」)。誠照寺は戦国初期の一時期、山門の系列下にあったらしい。なお誠照寺派の寺院には、光明が四八本未満の各種十字名号本尊が多々見受けられる。一方、証誠寺では善幸が、応仁・文明の乱によって出雲路毫摂寺が退転したおり、毫摂寺の善智(室は石田西光寺永存の妹)・善鎮らを山本荘に住まわせて本寺として遇した(「反古裏書」、「越前三門徒法脈」)。善幸はまた、自分の娘の夫に西光寺永存の弟の兼慶(玄秀)を迎えて毫摂寺善智の養子としている。かくして三門徒各派は、分裂を重ねながらも、特に南条・今立・丹生郡一帯にひろがっていった(図69)。



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