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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      高田系の展開
 越前の古い由緒をもつ寺院のほとんどは高田系に属している。それらの寺院の由緒書には、盛綱・高綱兄弟以外にも、斎藤実盛(福井市風尾勝鬘寺)・波多野慈道(三国町加戸本流院)・土屋義則(美山町河内聖徳寺)など、他派の伝承と比べて、鎌倉御家人の系統を引く名族の名が散見される。彼らは顕智の越前巡教のおりに坂井郡加戸や足羽郡東郷で帰参し、門流の列に連なったという。高田系の古刹寺院には、鎌倉から室町期と推定される太子立像・太子絵伝・太子堂・善光寺三尊仏など聖徳太子に関わる法物が共通して存在しており、開祖と仰ぐ外来領主の庇護を得て浄土教的な太子信仰をもとにした宗教活動を進め、やがて高田門流内に固定化されていったものと推測される。
写真294 太子立像

写真294 太子立像

 高田門流は東海地方を拠点としていたが、貞治三年(一三六四)成立といわれる「三河念仏相承日記」に、越前へ入った高田門流の人物として遠江国狭束(静岡県大東町)の「佐塚ノ専性」の名が記されている(『集成』一)。この専性は、大野市友兼専福寺・今井西応寺の開基と伝えられている。本覚寺は戦国期の越前本願寺教団を代表する寺院であるが、本願寺七代の存如に帰依する以前の同寺は高田門流に属していた(小松市春木家蔵「長禄元年光明本尊」『新丸村の歴史』)。同寺の祖は南北朝期の和田の信性といわれている。「反古裏書」(永禄十年成立)によると、この信性は三河本証寺の門弟であった。本証寺(愛知県安城市)の祖である和田の慶円(教円)も顕智の弟子といわれている(「三河念仏相承日記」)。近年、本証寺・本覚寺に伝存する太子立像がともに同一制作者の手になるものということが明らかにされた(安城市歴史博物館特別展『聖徳太子像の造形』)。顕智のあとを継いで高田門流の四代目の代表者となった専空は十四世紀前期に北陸へ行化し(『加賀市史』通史上巻)、十代目の真恵も長禄三年(一四五九)に加賀・越前・近江に赴いたと伝えられる(「正統伝後集」『真宗全書』六六)。かくして越前は、東海地方と並ぶ確固たる高田派の基盤となっていった。なお同派の寺院は、流入経路の関係からか、大野・足羽・今立・坂井郡に多い。



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