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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    三 念仏系諸派の活動
      佐々木同族伝承寺院群
 流入系寺院の由緒のなかで、鎌倉幕府草創期に活躍した御家人佐々木三郎盛綱・四郎高綱兄弟を祖とする一群の由緒書が存在する。中世の宗教集団は近世以降の宗派的な形態をとっておらず、善知識と称される指導者(師匠)と彼から面授・口伝を受けた門弟(弟子)によって擬似同族集団的に構成される「門流」が、実際上の形態であった。非血縁の弟子や門徒にとって、師匠・善知識はいわゆる「親」そのものであった。共通の始祖伝承とは、各宗派に帰着する以前にそれぞれが属していた門流の痕跡を告げるものと想定される。
写真293 足羽郡称名寺(美山町折立)

写真293 足羽郡称名寺(美山町折立)

 さて盛綱・高綱の始祖伝承をもつ寺院は、越前に少なくとも一五か寺、そのほか加賀・能登・越中にも数か寺ある。それらの多くは高田派の足羽郡折立称名寺から分立し、戦国期から近世にかけての宗派化の進展に従って、それぞれ高田派・本願寺派・大谷派・誠照寺派などの現存各派に属していったことが、由緒書の記述概要や関連史料から推定できる。折立称名寺は、高綱の子孫たる法善光実が足羽郡東郷村で高田の顕智に帰依して創建されたと伝えられている(『美山町史』下巻、『大野郡誌』)。顕智は鎌倉末期に活躍した人物である。
 盛綱・高綱始祖伝承は、北陸以外の奥美濃(岐阜県郡上八幡町安養寺)・近江(滋賀県日野町正崇寺)・摂津(大阪府茨木市溝杭仏照寺)・信濃(長野県松本市正行寺)・常陸(茨城県日立市覚念寺)などの各寺記録中にも見受けられ、ほぼ全国的に分布している。ところが、それらの記録中に光実の名が登場することはほとんどない。光実伝承の展開地域は北陸一帯に限定されているのである。摂津仏照寺や近江正崇寺は、関東原始門流の一派である荒木門流に属する畿内の最有力寺院である(光薗院本「親鸞聖人門侶交名牒」『真宗史料集成』一、以下『集成』と略)。荒木門流の本寺格の寺院に鎌倉最宝寺があるが、その寺院は盛綱の兄定綱の系統をひく近江守護佐々木道誉の所領内に存在していたことが知られている(明徳四年十二月六日付京極高詮安堵状「最宝寺文書」)。高綱の弟の義清の在所である相模国大庭にも、荒木系の有力指導者である源誓が薬師堂の別当として居住していた(『甲斐国志』三)。おそらく鎌倉御家人佐々木一族につき従って原始荒木門流の者たちが諸国に拡散し、そのうちのある系統の者が奥美濃から越前へと流入し、光実という人物のときに顕智の教化にふれて高田門流内に組み込まれ、南北朝から室町期にかけて折立称名寺に属する門弟が次つぎと北陸各地へ拡散していったのであろう。



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