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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      出世道場としての永平寺
写真292 大野郡宝慶寺(大野市宝慶寺)

写真292 大野郡宝慶寺(大野市宝慶寺)

 永平寺は五世に大野郡宝慶寺から義雲が住持に入って以降、寂円派によって運営が行なわれていたが、暦応三年三月十一日に火災に遭っている。南北朝の内乱に巻き込まれたようである(「建撕記」)。火災後九か月にして僧堂は再建されたが、その他の伽藍の復興は一一年後に始まり、八年もかけて終了している。しかし十五世紀後半になると、峨山派の人びとも正住のほかに住持として入ってくるようになり、それらの人びとの納銭により、復興・修理の事業が行なわれるようになっていくのである。しかもその数は、次第に増加していった。
 一方、全国的発展を遂げた能登総持寺を拠点とする峨山門派は同寺に輪住制を敷いていたが、入院者が増加するにしたがい住持期間は短くなり、一年間に幾人もの入院があった。正住がそのようであったから、運営は有力五派の塔頭(これも各院一年交替の輪住)が一年間で五分して担当し、近隣寺院との協議により行なった。いずれにしても永平寺または総持寺の住持を勤めることにより、宗内の僧侶としての地位を高くした。
 五山派の人物が、将軍や関連公方の公帖を受けて諸山―十刹―五山へと進み、五山の上の南禅寺の住持となって公帖とともに綸旨を受けて紫衣着用を許されることになったのに対して、林下禅林は朝廷から住持辞令ともいうべき綸旨を受けて入院した。これを出世(瑞世)という。永平寺・総持寺ともにこの出世の道場の資格を求めていくことになる。
 永平寺は応安年間に朝廷より「日本曹洞第一」の「出世道場」の勅裁を得たというが(資4 永平寺文書一四号)、それには若干の疑点もある。永平寺は文明五年にも火災に遭っているが(同前)、その三四年後の永正四年十二月には曹洞宗の第一道場であるという勅額を受けている(『宣胤卿記』同年十一月二十三日・十二月十六日条)。この勅額下賜により、綸旨による出世が可能になったと考えられる。禅師号を受ける資格はすでに得ていた。なお総持寺は永正八年正月に紫衣の綸旨を求めているが、失敗している。紫衣の資格は得られなかったが、すでに綸旨の出世道場としての勅許は得ていたのかもしれない。いずれにしても総持寺も出世道場としての資格獲得に努力していた。
 永正六年四月に永平寺の住持が定書を作成している(資4 永平寺文書一二号)。それによると「居成」(入院しないで「前永平」の称号のみを得ること)は禁ずるが、老僧の場合は代理を立てることを許可する、出世者は「置銭」を納める。その「置銭」は修造奉行に納められ、住持と相談して造営の費用に充てる、としている。このように十六世紀前後になると出世がかなりさかんになり、そのさいの「置銭」が伽藍の修造費に充てられていたことが知られる。
 永平寺は天文八年十月七日にも「日本曹洞第一」の「出世道場」であることを認めた後奈良天皇綸旨を受けている(同一四号)。文言から、火災により焼紛失したので再申請したことが知られる。しかしこの下賜に対して総持寺が相当の反発を示したようである(同一五号)。当時、両寺は出世第一道場をめぐり争っていたようである。そののち永平寺は天正十九年(一五九一)十月二十二日に後陽成天皇の出世道場として認可する旨の綸旨を受けている(同二七号)。総持寺は二年前の天正十七年六月二十七日に同内容の綸旨を受けている。このころには両寺ともに相互の存在を認めあうようになっていたようである。以降、両寺は両本山としての地位を確実なものにしていったのである。なお出世を促す招請状を、永平寺では「請状」、総持寺では「公文」と称した。内容はほとんど同じで、伽藍修造のために入院してほしい旨が述べらられている。
 こうしたなかで永平寺は納銭の増額を図ろうとしたのであろう。享禄元年(一五二八)にそれまで峨山派のなかで排除されてきた源翁派の下総安穏寺に請状を出すが、関東の了庵派を中心とする他派から、それならば我々が永平寺の運営から手をひくと猛反対を受けている。また総持寺でも永禄元年に源翁派の会津示現寺に公文を出すが、やはり他派から反発を受けるという、出世をめぐる事件がおこっている(「安穏寺沙汰書」、「会津示現寺沙汰書」)。永平寺は元亀二年(一五七一、あるいは同三年)の十二月三十日に火災に遭ったとされ(「建撕記」)、また天正二年に一向一揆が蜂起したさいにも、一揆方により放火されている。また同寺ばかりでなく、宝慶寺をはじめ破却された曹洞宗寺院は少なくなかった(「朝倉始末記」)。火災後の永平寺は、出世者からの置銭徴収にいっそう力を入れ、また関東をはじめとする全国の諸寺院からも援助を受けて復興事業を進めていったものと考えられる。各地には永平寺祚棟・祚玖両住持の出世を促す「請状」が多くみられるのである。



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