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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      越前における曹洞禅の展開と朝倉氏
 慈眼寺の系統すなわち天真派は、信濃から関東へと進出するとともに、北陸にもかなりの発展をみせている。天真派と朝倉氏との関わりは、坂井郡本郷の竜興寺(現在廃寺、福井市八幡町八幡の山上)が天真の門弟の希明清了により開山されたことによる。同寺は安居の代官藤原清長によって建立された。この地は朝倉氏が南北朝期後半に地頭職を獲得していたから、竜興寺と朝倉氏の関係は深かった。朝倉氏は一乗谷に移ると、その地に孝景(英林)の祖父教景(寛正四年没)の菩提所として心月寺を建立し、開山に竜興寺三世の桃庵禅洞(天真―希明―大見―桃庵と次第)を開山に招いたのである。朝倉氏が天真派を中心に永平寺系曹洞宗に保護を加えたのは、同派の寺院が越前に点在しており、新しい拠城の一乗谷から山を越えた所に永平寺が存在していたことによるのであろう。なお、心月寺の末寺の松雲院(義景の法名からの寺号)が近世初頭に一乗谷の城戸内に建てられた。
 朝倉氏の越前支配下において天真派は同氏や一族の外護を受けて、いくつかの寺院を建立している。桃庵の弟子の芥室令拾は永春寺(福井市つくも)の開山となっている。同寺は一族で北庄城主であった頼景が建立した寺院であった。芥室の法孫である勧雄宗学は、やはり北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山している。芥室と同じく桃庵の弟子で心月寺の二世の海梵覚は泰蔵院(鯖江市南井、慶長八年結城秀康により足羽郡北庄に移され、昭和十八年に三方郡北田の東光寺跡に移る)を開山したが、その弟子で心月寺三世の夫巌智樵は越中松倉城主の椎名氏の外護を受けて越中新川郡東山に雲門寺(現在廃寺)を開山するとともに、越前に英林寺を建立したが、これは朝倉孝景(英林居士)のための寺院であることはいうまでもない。享禄四年(一五三一)七月晦日付の「慈眼寺納所方置米置文」に英林寺の名がみえ(資6 慈眼寺文書七号)、当時の住持は夫巌の弟子の大雄亮であったことが知られる。
 越中においては東に椎名氏、西に神保氏の二大勢力が二分して支配していたが、この置文によれば、越中神保氏の家臣である小島六郎左衛門が置米一五石を寄進している。またこの事実を確認し連署している泰蔵院の夫巌は、前述したように椎名氏の外護を受けて越中雲門寺を建立した人物であり、英林寺の大雄の門弟である。心月寺の大英もその法系の人物であり、椎名氏が外護する越中雲門寺とは深く結びついている人びとであった。また神保氏も天真の弟子で希明と兄弟弟子である機堂の門派を受容していた。つまりともに天真派を受容していたわけであるが、その天真派は当時一年交替で住持を勤める輪住制を展開していたのである。ここに天真派は越前朝倉氏・越中神保氏・同椎名氏との間で生じた問題について、仲介の役割を担いうる立場にあったといえる。
 夫巌の兄弟弟子の竜億祖易が朝倉景高を開基として岫慶寺(大野市日吉町)を天文年間(一五三二〜五五)に開いている(「大野領諸宗寺方年代寺領記」)。また心月寺の門流ではないが、天真派で機堂の法孫である越渓麟易が永昌寺(福井市東郷)の開山となっている。一乗谷初代の孝景の室である桂室永昌大姉の菩提のための建立であったことが知られる(「月舟和尚語録」)。さらに越渓の弟子の雷沢宝俊が霊泉寺(福井市東郷、もとは篠尾)の開山となっている。開基は朝倉景儀である。また朝倉氏の関係から、そのもとにあった商人にも曹洞禅は受容された。慈眼寺や心月寺と関係の深い存在であった祥雲寺は、戦国期からの商人であった慶松家の菩提寺であった(資3 慶松勝三家文書四・八・一一号)。大永元年(一五二一)の創建であるという。
 その他の派では、願成寺の開山である芳庵の門弟の昌庵が盛景寺(武生市春日野町)の開山となっている。応永年間(一三九四〜一四二八)の成立で開基は朝倉盛景であるとされる。朝倉氏に早い時期から外護を受けたことになる。また通幻の弟子の天徳曇貞の法孫である竹香舜可は、瑞洞院(武生市大虫町)を朝倉孝景(英林)の外護を受け創建している。宝慶寺の寂円派の建綱の法孫である以は曹源寺(大野市明倫町)を開山しており、太源・如仲・真厳派の梅翁存玄は幸松寺(敦賀市莇生野)の開山となっているが、両寺ともに義景の外護を受けた寺院であるとされる。さらに前述したように大野宝慶寺も、大野郡司として当郡を支配した朝倉光玖(玉岩)から所領を安堵されているし(資7 寶慶寺文書四号)、大野の洞雲寺も彼の手厚い保護を受けている(資7 洞雲寺文書五号)。



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