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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      永平寺系曹洞禅の展開
 鎌倉期の永平寺についてはすでに述べたところであるが、弘安元年(一二七八)に宋から道元を追慕してやってきた寂円は、大野郡小山荘の地頭伊自良氏の外護を受けて大野に宝慶寺を建立し、二世の義雲が永平寺五世に入って以降は代々永平寺の住持を出し、戦国期になると朝倉氏の外護を受けていった。
 永平寺三世の徹通義介が加賀大乗寺に進出し、門弟の瑩山紹瑾は能登に永光寺・総持寺を開き、北上する展開をみせたが、瑩山の弟子の峨山韶碩の門下が逆に越前へと進出してくることになった。そしてのちに同派が全国各地へと発展すると、それらの寺院と能登総持寺との間における各派の拠点として存在した寺院も少なくない。以下、『越前国名蹟考』『若州管内社寺由緒記』や寺伝などによりみていくことにする。
写真289 通幻寂霊木像

写真289 通幻寂霊木像

 まず、総持寺二世の峨山の弟子の通幻寂霊は摂津と丹波の境に永沢寺を建立し、越前に至徳三年に竜泉寺(武生市深草)を開山している。開基は藤原義清であった。また通幻の門弟たちが寺を創る。普済善救が白沢永幸の外護を受け応永十二年に禅林寺(福井市徳尾)、天真自性は喜慶元年(一三八七)に慈眼寺(今庄町小倉谷)、天徳曇貞は宗生寺(武生市新保)、芳庵祖厳は応安五年(一三七二)に願成寺(武生市土山町)を、不見明見は応永三年に興禅寺(武生市村国)を開いている。慈眼寺はこの地の土豪赤座氏とも関係のある寺院と伝えられる。禅林寺にはのちに一乗谷で儒学を講じた清原宣賢が葬られており、願成寺は斎藤加賀守と二階堂吉信の菩提所という。
 さらに、峨山の弟子で加賀仏陀寺を開いた太源宗真の門弟の梅山聞本は在地の土豪小布施氏の外護を得て竜沢寺(金津町御簾尾)を、瑩山の弟子の明峰素哲の孫弟子の宝山宗珍は永建寺(敦賀市松島町)を建立している。竜沢寺開山の梅山が京都でも知られる名僧であったことは、足利義満の七回忌法要を勤めるよう将軍より再三にわたり要請を受けていることや(資4 龍澤寺文書四・五号)、梅山所持の観音仏の霊験は京都にも知られていたことからもうかがえる(『碧山日録』長禄三年十月十八日条)。また永建寺は、金ケ崎城に迷う霊魂を鎮めるための寺院であったという。
 これらの寺院のうち、竜泉寺・禅林寺・宝生寺・慈眼寺・願成寺・竜沢寺・永建寺には、それぞれ門下の寺院によって輪住制(短期間で住持を交替していく方法)が採られ、各派の拠点となり結束の中心となっていった。例えば慈眼寺の場合、機堂・快翁・英仲・希明の四派によって同寺の運営が維持されており、北陸・関東地方を中心に東海地方や伯耆・出雲などに門下が展開していた(資6 慈眼寺文書五号)。竜沢寺の輪住制は多くが二年で交替し、如仲(喜山・真厳・不琢・石叟・物外・大輝)・大初(仙厳)の各派などによって維持された(資4 龍澤寺文書四一号)。
 そののち曹洞禅は越前・若狭に勢力をもった武士の外護を得て展開を遂げた。特に越前では朝倉氏、若狭では武田氏およびその家臣との関係が顕著であるが、それをみる前に他氏との関係についてみておくことにする。不見の孫弟子の春屋永芳は霊泉寺(武生市池泉町)を開山している。同寺は斯波氏の墓所となっている。普済の門弟の玉翁正光は永享五年に金剛院(武生市深草)を、普済の孫弟子の胎雲恕欣は文安年間(一四四四〜四九)に洞源寺(武生市中央)を開き、開山には師である宝山を迎えている。外護者は立髪(立神)兵庫頭であった。末寺の洞月院も同じ宝山の開山であり、開基檀越も同氏であった。斯波氏が力を失うにしたがって、大野郡に力をもった二宮左近将監の外護を得て太源・了堂派の薩摩国日置郡の元勅が、康正元年(一四五五)に洞雲寺(大野市清滝)を開いている。なお二宮氏は朝倉孝景(英林)に滅ぼされている。同寺はその後は朝倉氏の外護を得て存続した。一方、太源・了堂派の徳翁永崇は十五世紀に斯波持種の外護を得て洪泉寺(大野市鍬掛)を建立している。



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