丹生郡志津荘に祥瑞寺という寺院があった。京都五山の一つである東福寺内の海蔵院の末寺であるから聖一派の寺院である。祥瑞寺は永享十一年九月五日当時訴論をおこしているが、幕府は祥瑞寺をはじめとする「大衆」(僧侶)に対して理に付くべき旨を命じている(同 同日条)。祥瑞寺やその僧侶の無理な訴論や行動の停止が命じられたということであろうか。長禄二年(一四五八)九月十四日当時、志津荘には祥瑞寺を「首」とする総持寺・瑞応寺・伝泉庵など二三の道場が存在したが、志津荘の領主である賀茂社(下賀茂社)の社家が「闕所」とされたことを訴えている(同 同日条)。おそらくこのときの長禄合戦の戦乱によって志津荘内の二三の道場の寺領が「闕所」とされたのであろう。
二三か寺は祥瑞寺を「首」としたが、そのもとにあった総持寺は独自でも所領の安堵を得ている(同 長禄三年九月二十九日条)。なお総持寺の塔頭として伝泉院(伝泉庵)の名がみられ(同 長禄四年八月二十二日条)、二三の道場のなかにも本院・支院の関係があったのである。ただし、寺領と関わる支院だけに、塔頭といっても伝泉院が総持寺内に存在した支院か、少し離れた所にあり末寺的性格をもった支院であったかは不明である。いずれにしても京都に本院をもつ現地の寺庵がいかに存在していたかをうかがうことができる。
また、東福寺海蔵院の末寺の普明庵は寺領が押領されたのであろう、朝倉孝景に充てて返却の下知をするように求める書状が出されている(資2 内閣 諸状案文一号)。現地の厳しい状況のなかで、なんとか寺領を経営しようと努力している在地の寺院の姿をみることができる。なお前述した東福寺末寺の祥瑞寺は、寛正四年七月五日当時におこっていた訴論において目安を捧げている。これにより、玄儀書記の訴えは「濫訴」とされ退けられ、「寺家」(祥瑞寺や本寺東福寺のことと考えられる)の主張が認められる判決が出されている。そして玄儀書記と協力関係にあった斎藤新兵衛尉は「違乱」をおこしたとして「折檻」の処分を受けた(『蔭凉軒日録』同日条)。この訴論の内容は不明であるが、約二年後の寛正六年八月六日ごろには、住持や焼香侍者(入寺をはじめとする儀式において住持に代わって焼香する役割をもつ者)が決定されているが、そのさいに以前の訴論が若干問題となったようであるので(同 同日条)、住持の問題であったのかもしれない。訴論が住持職の問題か、あるいは寺領に関する問題かは不明であるが、玄儀書記が斎藤氏の力を背景に祥瑞寺の運営(あるいは住持職獲得)に乗り出してきたのに対して、在地の祥瑞寺は目安を捧げるなどして対抗してその「濫訴」を退けており、ここにも戦乱の世における在地の五山派寺院がさまざまな問題に対面していた様子をみることができるのである。
若狭や越前の禅宗寺院の禅宗なかには幕府の祈願寺となるものがあった。小浜の栖雲寺(小浜市浅間)が長禄二年十月二十七日に、越前瑞勝寺が翌三年四月四日に、越前興源寺は同三年九月二十九日に祈願寺となっている(同 同日条)。栖雲寺は東福寺内退耕庵の末寺であるので聖一派の寺院である(同 長禄二年九月十五日条)。このうち栖雲寺と瑞勝寺は寺領の経営がうまくゆかず「不知行」となったり(同 長禄二年九月十五日条)、諸方で「押妨」にあったりして(同 長禄四年九月二十五日条)、厳しい状況にあった。そのようななかで、祈願寺となって在地での経営を有利に展開しようとしたのであろう。
なお栖雲寺は、寺伝では文明十五年武田信親の創建で、武田氏の出身で武田元信の子である京都建仁寺の潤甫周玉を開山に迎え建仁寺系の寺院として存続したという。寺伝からすれば文明十五年以降の存在となるが、「税所次第」の応永十四年五月十七日の記事によれば、足利義満が栖雲寺に「御座」しており(三章二節一参照)、それ以降、前述のように長禄二年当時も存在したことになる。したがって、当初は東福寺退耕庵末寺であったが、武田氏によって再興され、武田氏出身の建仁寺系の僧が住持となってのちは建仁寺系の寺院として存続したことになる。そのほかにも五山派の寺院は存在した。越前竜翔寺は相国寺内鹿王院の末寺であり、長禄四年八月二十五日に寺領の安堵を受けている(同 同日条)。 |