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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      若狭の諸山高成寺と安養寺
 高成寺は山号を青井山と称し、現在は南禅寺派の寺院として小浜市青井にある。若狭の守護大高重成が康永三年に遠敷郡青井にあった旧仏教系寺院を禅寺に改め、大年法延を開山に招いた。寺号は大高重成から取ったものであった。大年法延は古林清茂(別号を金剛幢)の法を嗣いで渡来した竺仙梵僊の弟子となった人物で、鎌倉を中心に活動していた。金剛幢下の人物であるだけに漢詩文に優れた能力を発揮した人物であった。晩年になり上洛し、足利尊氏の帰依を受けた。尊氏の幕下にあった大高重成も大年に帰依した。大年は康永三年十月八日に師竺仙から跋文を請い、尊氏が尊敬した夢窓疎石の「夢中問答」を刊行しているが、大高重成の助勢があった(資9 高成寺文書四号)。大年は貞治元年八月一日に置文(遺言状)を定めている。器用の人物を住持に選出すべきことと、本寺楞伽院(竺仙の塔頭で鎌倉浄智寺と京都南禅寺のなかに所在)が同寺を門徒寺と称して「違乱妨」をすることを禁止するという内容であった(同三号)。このような置文が作成されたのは、楞伽院の干渉が強まる可能性もあると考えたからに違いないと思われる。大年はその年の十月二日に没している。なお同寺は安国寺に指定されている。高成寺は古林派(金剛幢下)あるいは楞伽派に属したことになる。
写真286 大年法廷画像

写真286 大年法廷画像


写真287 遠敷郡高成寺(小浜市青井)

写真287 遠敷郡高成寺(小浜市青井)

 高成寺が諸山に列せられた時期は不明であるが、応永二十五年に大梁梵梓が住持に就いており、瑞渓周鳳が諸山疏を作成しているので、それ以前から諸山であったことが知られる。住持に就いた人物をみると、法勝首座(『蔭凉軒日録』永享九年十二月二日条)と康仁首座(同 永享十二年十月四日条)が公文を求めている。康仁の公文の申請のときには京都楞伽院祥金の「吹嘘(推挙)」があった。また聖真首座(同 長禄二年十月三日条)や慈晃首座(同 文明十九年五月三日条)も公文を申請している。江庵慶派首座は長享二年五月二日に公文を願い出て、六月一日に入寺している。「青井山安国高成寺略記」によれば、諸山の高成寺に住してから鎌倉十刹第一の禅興寺―鎌倉五山第一の建長寺―京都五山の上の南禅寺へと出世するコースがあったという。楞伽院のある浄智寺への入寺がこのコースに入っていないことには疑点が残るが、鎌倉禅林との関係を保っていたことは確かなようである。
 安養寺は山号を万歳山と号し、もと遠敷郡西津荘にあったが、現在は廃寺となっている。開山は在中中淹である。彼は竜湫周沢の門弟で夢窓疎石の孫弟子である。京都相国寺や南禅寺に住し、南禅寺内に瑞雲庵、相国寺内に大徳院(のち慈照院)などを開創している。安養寺は応永十七年八月二十九日に諸山に列している(「守護職次第」)。夢窓派の寺院ということになる。
 住持に就いた人物をみると、中銀首座がいる。永享十年四月七日に公文を申請しているが、相国寺内大徳院の「吹嘘」によっている。また周恕首座(『蔭凉軒日録』長禄三年二月二十一日条)・周雄首座(同 寛正三年三月二十九日条)・梵柔首座(同 寛正五年九月五日条)・聖誥首座(同 文明十六年十二月九日条)・心隆首座(同 長享三年八月二十四日条)が公文を申請している。なお心隆の公文は一か月後の九月二十五日に発給されている(同 同日条)。
 高成寺は京都南禅寺内(あるいは鎌倉浄智寺内)の楞伽院の、また安養寺は京都相国寺内の大徳院の末寺として位置づけられており、五山寺院内の門派の塔頭と深い関係をもっていたといえよう。



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