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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      護田寺と一乗谷南陽寺
 ここで宏智派の寺院であった護田寺についてみてみたい。同寺は足羽郡安居の弘祥寺から数里ほど離れ、九頭竜川右岸の吉田郡河合荘岩坂というところに存在した。同寺には明応八年(一四九九)に宏智派の慧均監院(寺院の運営を司る役僧)という人物が、「三十三所巡礼観音」すなわち三三体の観音像を仏師に彫刻させそれを安置し、開眼供養の法要のための法語の作成を五山文学僧で宏智派と親交のあった天隠竜沢に依頼しているのである(「天陰語録」)。なおこの護田寺は、それから三三年後の天文元年の夏に河合荘岩坂の地から弘祥寺の傍に移転し、中興開山の桃渓悟の「肖像」画を作成し、賛を宏智派と深い関係にあった弘祥寺や善応寺に住したことのある月舟寿桂に依頼しているのである(「幻雲文集」)。月舟の文集によれば、当時の住持は功甫洞丹であり、別源円旨―紫岩如琳―器成翁―桃渓悟―功甫と次第する人物であったことが知られ、ここにも宏智派の展開の一端がうかがえる。
 月舟寿桂はこれまでにもみてきたように、善応寺や弘祥寺に入寺した人物の祝辞ともいうべき多くの「疏」などを作成しており、宏智派の越前における展開のなかで生まれた交流であったといえよう。この月舟が一乗谷南陽寺の良玉侍者の肖像に賛を加えている(同前)。これには「南陽尼寺」とあり、南陽寺は尼僧の寺であり、朝倉貞景(天沢居士)が月舟のもとで出家させた娘の良玉侍者のために再造したことが記されている。宏智派の活動は朝倉氏の文化と深く関わっていたといえる。



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