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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      諸山に列した善応寺
 瑞聖山善応寺は弘祥寺とともに別源円旨を開山とする宏智派の中心寺院であったが、延徳元年(一四八九)十月十九日から諸山に列せられるよう幕府に運動を展開している(『蔭凉軒日録』同日条)。建仁寺内の同派の塔頭である洞春院が十一月二十一日に幕府に三〇〇〇疋と杉原紙一〇帖を納めるなどしており、諸山列位が決定した。そして翌二年閏八月二日に春岳契東首座が公文を願い出て、諸山になって初めての入寺を果たしている。月舟寿桂が山門疏を作成しているが、春岳がのちに弘祥寺にも入寺していることが月舟の詩文集から知られる(「幻雲稿」)。また大成集首座が文亀元年(一五〇一)に入寺し、永正年間ころには廉甫泉座元や臚雪鷹も入寺した。廉甫は少年のころから弘祥寺で修行した人物であるという(同前)。臚雪は東林如春に弘祥寺か善応寺において参学し、その弟子となり、月舟寿桂にも文筆を学び、天文五年八月には建仁寺の二七九世となっている(『扶桑五山記』)。



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