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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      弘祥寺の成立と展開
写真285 足羽郡弘祥寺跡(福井市金屋町)

写真285 足羽郡弘祥寺跡(福井市金屋町)

 ここで弘祥寺について少し詳しくみておこう。山号を大治山と称し、足羽郡安居(福井市金屋町)にあった宏智派の寺院である。前述したように、朝倉広景が康永元年に別源円旨を開山に招いて建立した。諸山に列せられたのは貞治三年(一三六四)十月一日(『扶桑五山記』二)、十刹に列せられたのは応永九年(一四〇二)十一月二十五日であった。
 弘祥寺に入った人物をみると、まず別源の弟子の玉岡如金がいる。天境霊致の山門疏があるので、永徳元年以前ということになる(「無規矩」)。玉岡は越前の人で、のちに建仁寺六十一世、天竜寺二十八世となっている。また同じ別源の弟子には紫岩如琳もおり、彼は前述したように朝倉氏の出身で、母谷山大孝寺を開いた人物である。さらに宏智派から大慧派に転派したが密接な関係を保っていた中岩円月の門弟の東湖浄暁が、入寺中に加賀の諸山金剛寺に住したことのある惟忠通恕と漢詩文の往復を行なっており、永享元年以前に入寺していたことが知られる(「繋臚」)。さらに入寺者をみると聖貞首座(『蔭凉軒日録』永享八年閏五月十六日条)・契咸西堂(同 永享十年三月十八日条)が公文を願い出ており、文安四年以前には雲霄□昂が住持となっている。雲霄は同じ宏智派の諸山である肥後国寿勝寺から十刹である弘祥寺への入寺というコースをたどったことになる。
 さらにまた心浩西堂(同 長禄二年九月十四日条)・鷹瑞西堂(同 寛正二年五月十二日条)・如辰西堂(同 寛正四年七月十一日条)が入寺のための公文を願い出ており、桃仙渓も寛正三年以前に入寺し(「流水集」)、契檀西堂が公文を願い出ている(『蔭凉軒日録』延徳元年十一月二十一日条)。
 華仙隠と錦渓如辰は文明九年(一四七七)以前に住持に就いており(「黙雲集」)、永正六年六月二十三日に雲巣□仙が肥後寿勝寺に入寺しており、永正八年八月には功甫洞丹が住持として入り、宝玉之が永正十六年春に公文を受け、二年後の同十八年八月に入寺している(「幻雲稿」)。なお功甫は天文二年に建仁寺へ二七四世として入寺している。彼は『扶桑五山記』によれば「不入院南禅」となっており、南禅寺には入寺せずして「前南禅」の資格のみを得たのであろうか。
 宏智派の祖である東明慧日の二百年忌すなわち天文八年当時、先の永正八年に入寺した功浦洞丹が臚雪鷹と漢詩文を交わしている(「臚雪藁」)。すでに建仁寺の住持も終えた人物なので、弘祥寺内の一角に庵でも構えていたのかもしれない。
 このように多くの入寺者を出したが、諸山の善応寺からの入寺は近隣なので当然のこととして、肥後国寿勝寺からの入寺もみられ、諸山善応寺・寿勝寺―十刹弘祥寺―五山建仁寺―五山の上の南禅寺という宏智派の出世(官寺や中心的な寺院に入ること)のコースがあったことが知られる。
 なお弘祥寺は明治初年に臨済宗妙心寺派大安寺(福井市田ノ谷町)に併合されている。大安寺は福井藩主松平光通によって明暦元年(一六五五)に創建された寺院である。また弘祥寺には明人で夢窓派の禅僧となった帳徳廉が訪れ、中国の寒山寺になぞらえて詩を作っており、長享元年(一四八七)に訪れた月舟寿桂が、それにちなんで作詩しているほどの景勝の地であった(「幻雲詩藁」)。



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