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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    一 天台・真言系寺院の活動
      越前における活動の様相
 滝谷寺や大谷寺・平泉寺などを通じて、南北朝期以降の越前の天台・真言系寺院の具体的な活動をながめてみよう。
 美作国の出身と伝える睿憲は、密教を求めて中国へ渡ろうとして遭難し、坂井郡崎浦(三国町)に漂着したといい、永和元年(一三七五)に「三国湊性海寺談所」において論書を書写しており、ついで康暦二年(一三八〇)に「千手寺多聞院」で、永徳三年(一三八三)には「摩尼宝寺内多宝院」において論書を書写したことが知られる(『滝谷寺の文書と寺宝』)。この摩尼宝寺が現在の滝谷寺をさしている。睿憲が永徳二年に一七か条を定め、そののち永禄七年(一五六四)に五か条を追加し朝倉義景が追認した寺法のなかに、「他流他宗等の学行を修すべからず」とみえ(資4 滝谷寺文書一・一〇〇号)、滝谷寺は密教の教義を堅持し学頭・弟子を育てて、朝倉氏一族の保護やこの地の古くからの有力国人である堀江氏の寺領寄進などによって徐々に勢力を拡大し、天正年間(一五七三〜九二)には米方六九石・地子銭二一貫文余を保持する寺院に成長していった(同一三九号)。住持の法統は京都醍醐寺報恩院の法流を継いでいた。
写真282 丹生郡大谷寺(朝日町大谷寺)

写真282 丹生郡大谷寺(朝日町大谷寺)

 もう一方の大谷寺は、越知山山頂にあった三所権現(越知社)の別当寺であり、この越知社は泰澄開創と伝える白山信仰にもとづく山岳修験の霊場であった。大谷寺は中世において次第に天台系の寺院となるが、鎌倉期には「弘法大師御影」を掲げており(資5 越知神社文書六号)、真言宗的な性格も帯びていた。大谷寺は越知山の麓から少し東に離れた谷にあり、越知山の山上の神事・法事は三月十八日の「御戸開」から九月十七・十八日の「御戸納」まで山篭衆を中心に行なわれた(同二六号)。寺院全体の管理は鎌倉期より院主、執当、大・小勧進などの「官職」と称される僧が行なっているが、寺僧たちは室町期には衆徒(講衆)と山伏(先達)から構成されていた(同九・二二号)。しかし天文元年(一五三二)に朝倉孝景は、山伏たちが「垂髪立」(俗人化)をしたため、今後は衆徒が寺を取り仕切るよう命じており(同四四号)、山伏の俗人化と勢力衰退を知ることができる。
 大谷寺は丹生郡糸生郷内にあり、この郷の地頭千秋氏の保護を受けていた。嘉元四年(一三〇六)に弘法大師御影供料田を寄進している藤原兼範とは千秋氏のことであり(同六号)、延文三年(一三五八)に「家風」の侍・中間・下部が大谷寺に乱妨することを禁止する旨の定書が出されているが(同一四号)、この「家風」とは千秋氏の家中をさすものとみられる。しかし宝徳元年(一四四九)にいたって、千秋氏は九〇石の寺領御供田を勝手に売却し、さらに神木をことごとく切り売ったため、大谷寺は斯波氏に訴えている(同二一・二二・二四号)。法会などの費用が古くは在地から勧進の形で徴収される上分にも依拠していたことは、文保元年(一三一七)に三月会法華八講料として足羽郡が差定され、喜捨が求められていることから推定しうる(同一〇号)。この法会の願主は泰澄大師聖霊、勧進は泰澄の分身とみられる小沙弥の飛鉢を受けた船頭で、その仏徳の不思議さに打たれて泰澄の侍者となった浄定行者、催使は仏敵に対する忿怒の相を表わす八大金剛童子とされており、泰澄伝承を巧みに用いながら行なわれる勧進に人びとは畏怖の念を抱きながら応じたのであろう。戦国期においても通常の寺領から年貢を収納するほか、大畑村・野田郷・田中郷・真栗村・甑谷村・在田村・坪谷村から上分を徴収していたことがわかるが、史料に上分と記されていなくとも、上分に由来する収納が多かったとみられる(同二六・四〇号)。これらは、古く「初穂」として納められていた形態を推定させるものである。また正応四年(一二九一)に大谷寺は日野川以西の商人たちを越知社の神人として掌握していたが、戦国期にいたっても丹生郡内の殿下領室衆や天下村蚕種商人から上分を取っていたし、塩商人・小物商人にも支配を及ぼしていた(同五・八・二六・四〇号)。
 越前白山信仰の中心地である平泉寺は、近年の発掘により白山社を挟む北谷・南谷に広がる六千坊と伝える多くの坊院跡が明らかになりつつある。戦国期の平泉寺の宗教活動は十分明らかではないが、明応二年(一四九三)三月十六日に秘符と丸薬を携えて京都相国寺蔭凉軒を訪ねた平泉寺杉本坊栄祐法印は、修験の根本道場である金峯山(大和・紀伊国境の大峯山)に八回も修業のために峯入した「無双の験者」で妻帯せぬ「清僧」であるとされており、平泉寺山伏の活動の一端を伝えている(『蔭涼軒日録』同日条、同年三月二十五・二十六日条)。平泉寺も大野郡内の荘園から正供とよばれる上分を徴する権限をもち(資7 洞雲寺文書八号、白山神社文書二号)、それはさらに坂井郡や末寺格の今立郡大滝寺近辺にも及んでいた(資4 龍澤寺文書二二号、資6 大滝神社文書五号)。平泉寺の一つの坊である賢聖院は、寺領として大野郡内の大槻村・堂本村・護法寺村・井口村・滝波村・坂谷村・矢戸村・保田村などにおいて、近年買得分も含めて米分四九四石余、銭分四五貫文を知行しており、護法寺村・片瀬村・井口村については、人足徴収権・闕所検断権をも有していた(資7 白山神社文書二号)。賢聖院のこのような厖大な坊領をみれば、五〇〇〇貫を知行したといわれる波多野玉泉坊や八〇〇〇貫を支配したとされている飛鳥井宝光院のような「法師大名」の勢力がいかに大きかったかが知られるであろう(「朝倉始末記」)。大永四年(一五二四)十月三日には、朝倉孝景の援助を得ながら、寺領の吉田郡藤島荘の荘官中村氏が惣都合四八五貫文余の費用を負担した御児の流鏑馬が、大々的な臨時の祭礼として挙行されている(資7 白山神社文書一号)。
 また近世末まで醍醐寺報恩院末であった性海寺は、滝谷寺とともに永正三年(一五〇六)の加賀一向一揆峰起にさいして破却されるが、朝倉氏と密接な関係をもって再興が図られたようであり、また古くから朝倉氏家臣のなかで最も有力な国人であった堀江氏の寄進を得て、寺領の拡大を図っていった(資4 性海寺文書)。



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