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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    一 宗教秩序の変容
      勅願所
 越前・若狭の勅願所としては、越前の敦賀郡西福寺・坂井郡興禅寺・吉田郡永平寺・今立郡毫摂寺、若狭の遠敷郡明通寺・羽賀寺などがある。永平寺は応安五年(一三七二)に「日本曹洞第一道場」との勅額・綸旨が下されて勅願所となったが、文明五年(一四七三)甲斐氏と朝倉孝景との戦乱でこれらが焼失したという。本当に綸旨が下されたのかはのちに相論となっており、真偽は定かではない。そして十五世紀の最末期ころから、永平寺は能登の総持寺と曹洞宗本寺の地位を争うようになる(本章二節二参照)。
 永正四年に永平寺は前関白一条冬良の斡旋で「本朝曹洞第一道場」との勅額を得たが、総持寺の方は紫衣の綸旨を却下された。天文八年に後奈良天皇は応安の勅裁を再確認する綸旨を永平寺に発したが、翌九年には総持寺の反論を容れてそれを破棄したという。天文の本寺争いに関する史料は近世の写しか残っていないが、天文十九年に駿河国臨済寺の僧が今川義元に対し、「総持寺前住は五山第一の南禅寺に准ずるとの綸旨が出ているので総持寺の紫衣着用は当然だが、不出世の寺である永平寺僧が紫衣・黄衣を勝手に着用しているのは不当だ」と述べており(「臨川寺文書」)、一連の経過は事実とみてよかろう。それと同時に、戦国期にあっても天皇の裁許が地域社会のなかでかなりの実効性を発揮していたことがわかる。天文四年の『後奈良天皇日記』によれば、「勅願寺永平寺」の末寺であった備後国長松寺の香衣が青蓮院を介して申請され勅許されている。勅願寺や曹洞宗第一道場といった肩書きは、末寺住持の香衣勅許を実現していくうえで有効であり、末寺編成を進めるうえで大きな役割を果たしていた。
 勧進や開帳の綸旨も発給された。敦賀郡西福寺では、畠山教元が常宮権現の託宣を受けて経蔵を造立し、浄鎮を中心に一切経の勧進を行なったが、文安二年(一四四五)にそれを支援する後花園天皇の綸旨が出され、天皇や道俗貴賎から古写経が奉納された(資8 西福寺文書一一二号)。これが西福寺の一切経勧進経(国指定重要文化財)で、奈良期から鎌倉期の古写経が今に伝わっている(資14 書跡編参照)。また羽賀寺も大永四年(一五二四)に、開帳による堂舎修造の綸旨を得ている(資9 羽賀寺文書一八号)。こうした綸旨は勧進や開帳の許可権が天皇にあったことを意味するものではないが、勧進や開帳がさかんに行なわれた時代だけに、西福寺の例のように、人びとの寄進を集めるうえで綸旨の発給は有効に機能した。
 勅願所であることが寺領保全に役立った例も多い。羽賀寺は天文九年に明通寺・神宮寺についで武田信豊の祈願所となり、武田氏から寺領や諸堂社の供僧・別当職の安堵を得たが、このとき武田氏祈願所となることのできた理由の一つは、羽賀寺が勅願所だったことにあった(同二三号)。しかも天正六年(一五七八)織田信長の命令で丹羽長秀が羽賀寺の寺領を収公しようとしたときには、本寺の青蓮院や正親町天皇のたび重なる働きかけによって、結局勅願所ということで寺領を安堵されている(同三九号)。また敦賀郡西福寺も文安二年に後花園天皇の祈願所となり、寺領安堵の綸旨を得ている(資8 西福寺文書一一一・一一二号)。
 もっとも、勅願所の権威が必ずしも機能しない場合もある。坂井郡河口荘細呂宜郷上方に興禅寺という寺院があった。長禄三年(一四五九)興福寺は長禄合戦による支配の動揺に対処するため、皇女安禅寺宮の協力を得て、興禅寺を後花園天皇の祈願所とすることに成功した。しかし綸旨を示しても百姓たちは返事もせず、寺領の方は取り戻すことが難しかったようである(『雑事記』同年九月二十九日・十二月四日、長禄四年三月二十日条)。とはいえ、興禅寺そのものは興福寺に返還されており、室町・戦国期にあっても天皇の権威性は、地域社会のなかで活動する寺社にとって、なお重要な意義をもっていた。



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