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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    一 宗教秩序の変容
      将軍家祈願所
 幕府の祈願所としては小浜妙光寺・敦賀郡西福寺・坂井郡称念寺や同郡豊原寺のほか、坂井郡竜沢寺・小浜栖雲寺・越前瑞勝寺(所在地未詳、大野市の瑞祥寺か)などの禅宗寺院がある。これらはいずれも将軍家祈所となることによって、幕府から寺領を安堵されている。
 小浜の妙光寺は観応二年(一三五一)に足利尊氏の祈所となることによって寄宿・狼藉の禁制を与えられているし(資2 松雲公三号)、天文十六年には尊氏の祈所であったことを理由に、武田信豊は濫妨・狼藉を禁じ臨時課役を免除して寄進・買得地を安堵している(資9 妙光寺文書五号)。敦賀の西福寺は応永十三年(一四〇六)から守護斯波氏から寺領の安堵を受けるようになり、応永三十年には足利義持の祈願寺となっている。さらに永享二年(一四三〇)足利義教から祈願寺の御判御教書を得たさいには、斯波義淳が安堵した寺領目録を義教が再度安堵している。それにともない守護代甲斐常治の遵行状や青蓮院義快からの寺領安堵状も出ており(資8 西福寺文書四〇・七六・八九・九三・九四・九六・九七号)、将軍家祈願所となることが寺領保全の点で有効だったことがわかる。
 国内が戦乱の渦に巻き込まれた場合には、上位権力としての幕府の安堵が特に求められた。斯波義敏と甲斐常治との長禄合戦に揺れるなか、竜沢寺は足利義政の祈願所となって寺領目録の安堵を受けているし(資4 龍澤寺文書一九号、『蔭凉軒日録』長禄二年十一月十九日条)、称念寺も遊行十七代暉幽の尽力によって足利義政の祈願所となり、寺領および塔頭領を安堵する袖判御教書を得た。それとともに、幕府の制札や守護の奉書・管領の御判を手にしている(資4 称念寺文書二・五号)。
写真271 称念寺置文(称念寺文書、部分)

写真271 称念寺置文(称念寺文書、部分)

 とはいえ、祈願所の認定には礼銭が必要だった。称念寺は四〇貫文の代物を支払い、これ以後も毎年蝋燭二〇〇廷(そのほか伊勢氏に一〇〇廷、奏者に三〇廷)を進納することになっていた(同五号)。このように勅願所や将軍家祈願所の認定にも礼銭が介在しており、地域寺院は朝廷・幕府・守護・本寺のうち、自己保全にとって有利なものと関係を取り結んだ。また称念寺の場合、祈願所の御判とともに、足利義教の御影や位牌などが送付されている。祈願所はもともと顕密系寺院に限定されており、称念寺はむしろ将軍家菩提寺というべきだが、こうした菩提寺も祈願所の範疇に入れられるようになった。そして称念寺では必ず代替りごとに継目御判をもらうよう置文に記している(同前)。守護の祈願所の場合、守護本人の誕生日を中心に祈巻数を捧げていることからもわかるように(資9 羽賀寺文書二七号)、勅願所や祈願所は天皇・将軍・守護個々人との関係であり、それを継続するには代替り安堵が必要であった。
 このように寺社は、寺領安堵や末寺編成のために朝廷・幕府の祈願所となろうとしたが、守護の祈願所になった例も多い。斯波氏の祈願所としては、南条郡崇禅寺や坂井郡細呂宜郷下方の長慶寺がみえるし、朝倉氏の祈願所には南条郡少林寺・同郡洞春院(曹渓寺)・坂井郡滝谷寺・小浜長源寺のほか、丹生郡織田寺玉蔵坊や大野郡平泉寺賢聖院があった。武田氏の祈願所には、後述するように遠敷郡の明通寺・神宮寺・羽賀寺・正照院(万徳寺)がある。また河口荘溝江郷の瑞春寺のように、興福寺大乗院の祈所となって、門跡から寺領安堵と濫妨禁止の禁制を得ているものもある(『雑事記』長禄四年八月一日条)。寺院の祈所というのはやや異例な感がするが、興福寺の場合、実態的には祈所は一種の末寺であった。



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