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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    一 宗教秩序の変容
      寺社と地域社会
 中世後期になると、地方寺社と中央との関係は次第に疎遠となり、むしろ地域に密着した寺社としての性格を濃厚にしてくる。明通寺や羽賀寺・妙楽寺・大飯郡飯盛寺には如法経信仰にもとづく厖大な数の寄進札が残っており、逆修・追善・女人成仏を求める地域民衆の信仰を集めていた(『小浜市史』金石文編)。敦賀郡江良浦寺庵の僧侶は在所で「いろは字」を教えていたし(資8 刀根春次郎家文書一三号)、武田氏の有力家臣の粟屋家長は少年のとき稚児として羽賀寺に入寺しており(資9 羽賀寺文書二七号)、寺院は地域諸階層への教育的機能をも果たしている。祈雨・止雨の祈もさかんに行なわれた。天文二十二年(一五五三)に地頭・領家の要請を受けて羽賀寺が雨乞を行なったときには、雨が降り始めると、羽賀寺礼堂で寺家衆と百姓衆が酒を酌み交わして喜び合っている(同前)。費用負担の問題もあって雨乞祈は領主や守護の要請によって実施されたが、僧侶と百姓が「大酒」を飲んで喜び合っている光景は、顕密寺社が地域民衆の切実な願いに応えていたことを示している。 写真270  「羽賀寺年中行事」(羽賀寺文書、部分)

写真270  「羽賀寺年中行事」
(羽賀寺文書、部分)
 在地領主や土豪層の寺社内部への進出も顕著である。明通寺では檀越の多伊良一族が寺僧となっていたし、敦賀郡西福寺の正寿院坊主職をめぐる寺家と檀那の相論の背景には、檀越一族の子院への進出があった(資8 西福寺文書二〇四号)。同様のことは平泉寺などについてもいえ、こうした在地領主・土豪層の寺社への進出が中世後期の顕密寺社の地域的発展を支えていた。さらにいえば、こうした寺社や仏教の在地性の深化が、一方ではその対立物としての一向一揆を生みだす原因となったし、他方では近世幕藩権力の脱宗教化の要因ともなったのである。
 しかしこうしたなかにあっても、中央との関係はなお一定の意義をもって存続していた。その第一は天皇および朝廷との関係である。天皇は中世を通じて勅願寺の免許のほか、僧位僧官や禅師・国師・上人号の授与、香衣・紫衣の勅許などの権限を保持していた。第二は幕府で、将軍家祈願所の認定や安国寺・利生塔の設営、五山・十刹・諸山の管理のほか、僧位僧官などの実質的叙任権をも掌握している。そして第三は本寺である。そこで、朝廷・幕府・本寺との関係が、中世後期における地域寺院の展開のなかで果たした役割をみておこう。



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