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第六章 中世後期の宗教と文化
   第一節 中世後期の神仏信仰
    一 宗教秩序の変容
      安国寺・利生塔
 鎌倉末から南北朝期にかけて政局はめまぐるしく変動し、苛烈な戦闘が相ついだ。そこで足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石の勧めによって、「元弘以来の戦死・傷亡一切の魂儀」を弔い王法・仏法を再興するため、暦応元年(一三三八)から一〇年ほどの間に、全国六六か国にそれぞれ一寺一塔を建設した。これが安国寺と利生塔である。治承・寿永の内乱後、朝廷・幕府が一体となって東大寺大仏の再建に尽くしたように、中世という時代にあっては、仏法の興隆によって平和の回復を図ることは王権の責務であった。しかも各国すべてに安国寺・利生塔を建立することは、それぞれの国の安定と治安維持の強化にもつながった。
 越前では長楽寺(所在地未詳)が安国寺とされたが内乱で焼失し、康安二年(一三六二)には永徳寺(所在地未詳)に変更されている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二七号)。若狭国安国寺は小浜高成寺といわれ、越前国利生塔は今立郡日円寺とされるが、確実なことはわからない。また若狭国利生塔はこれまで不明とされてきた。
 ところが遠敷郡明通寺に興味深い史料がある。明通寺は暦応二年正月、勤行目録・寺絵図や守護斯波家兼(時家)の書下を添えて、「御願塔婆」を明通寺に建立するよう要請している(資9 明通寺文書二七号)。一般に利生塔の設立は寺院側からの申請によっており、備後国浄土寺や伊賀国楽音寺の申状が残されているし、播磨国清水寺の場合は申請を却下されている。時期からいっても、内容からみても、この明通寺申状が利生塔建立の申請であったのは間違いなかろう。
 明通寺は文永二年(一二六五)の大田文では一町八段の寺田を認められており、若狭の寺院では国分寺・満願寺・性興寺につぐ四番目の面積を確保していた。鎌倉中期に紛争があり一時混乱したが、頼禅の時期に再建され、文永二年と同三年にはそれぞれ一〇〇人の僧侶を請じて本堂と二王堂の造立供養を行なっており、同四年には洪鐘が造られ同七年には三重塔も造立されて、伽藍が相ついで整備された(同四一号)。文永八年の置文には二四名の寺僧が署名しており、かなり多くの僧侶を擁していることがわかる(同五号)。しかも延慶三年(一三一〇)には若狭国守護代・税所代から異国降伏祈を命じられており、さらに正和三年(一三一四)には六波羅探題の金沢貞顕が北条貞時らの菩提のために法華経を奉納しており、社会的地位も上昇している(同七・八号)。もちろん明通寺院主職の補任権を地頭が握るなど(同一六号)、地頭多伊良氏の氏寺的性格も濃厚だが、元弘三年(一三三三)には後醍醐天皇から祈所に指定されており(同一・一五号)、建武五年(一三三八)には守護斯波家兼の祈命令を受けるなど、単なる氏寺の域を越えた若狭有数の寺院へと発展している。こうしたなかで明通寺は利生塔建立を申請したのである。建武三年八月の三方郡能登野での戦いでは明通寺は足利方として奮戦し三名の死者まで出しており(同二六号)、軍忠という点からみても、利生塔が設立される十分な条件をそなえていた。しかし明通寺の申請は却下され、代わって遠敷郡神宮寺が若狭国利生塔に選ばれた。
写真269 遠敷郡神宮寺(小浜市神宮寺)

写真269 遠敷郡神宮寺(小浜市神宮寺)

 暦応二年十二月十三日に仏舎利二粒を神宮寺三重塔に奉納するとの院宣が出され、翌三年正月一日に奉納されている(資9 神宮寺文書一〇号)。能登国利生塔の永光寺の場合も、暦応二年十二月十三日に塔婆修造の光厳院の院宣が出され、翌三年正月一日に足利直義の仏舎利奉納状が出ており、若狭神宮寺と日付が完全に一致する。神宮寺に奉納された仏舎利二粒のうち一粒が東寺仏舎利であった点も、諸国利生塔と一致している。神宮寺三重塔が若狭国利生塔に選ばれたことは疑いあるまい。
 神宮寺は若狭彦社の神宮寺として奈良期に成立したが、古代から中世への転換過程のなかで一宮の発展から取り残され、鎌倉中期にはかなり荒廃していた(一章七節一参照)。建長元年(一二四九)に武成名地頭伊賀光範によって四至領を寄進され(同一・二号)、殺生・伐木の禁止を保証されて再び発展の軌道に乗るが、それでも文永の大田文では寺領はわずか三段二四〇歩と、若狭の寺院で十九番目に過ぎない。そののち伊賀氏から弘安八年(一二八五)に田地六段二四〇歩・畠地一段を寄進されたほか、鎌倉最末期にも合わせて一町一段の寄進を受けているが(同四〜六号)、これだけでは明通寺を差し置くほどの発展ぶりはうかがえない。
 ところが金沢文庫(横浜市)に、各国ごとに一寺社ずつ書き上げた社寺交名の断簡がある(資2 金沢文庫所蔵文書一号)。能登の石動山、越中の一宮、越後の妙高山、越前の大野郡平泉寺とともに、若狭では神宮寺の名が挙がっている。この史料の性格は定かではないが、鎌倉幕府の関東祈所の交名(名簿)との意見もある。関東祈所とは鎌倉幕府の祈願所で、将軍家への寄進を申請して認可を受けると、「御家人に准ぜられ」て守護不入や所領の安堵・寄進、そして造営の援助と手厚い保護が加えられた。神宮寺が関東祈所に列せられたかどうかはなお検討の余地があるが、少なくとも鎌倉最末期には、神宮寺は若狭を代表する寺院と認定されていた。こうした流れのなかで、神宮寺は明通寺を破って若狭国利生塔となった。そしてこれを契機に神宮寺はさらに発展していく。
 文和二年(一三五三)に神宮寺は申状を提出している。仏舎利が奉納されて以来、毎日舎利供を勤めているにもかかわらずいまだに料所が寄進されていないと不満を漏らし、諸国利生塔にならって祈料所を寄進されるよう幕府に要請した(資9 神宮寺文書一〇号)。一般に安国寺・利生塔には得分二〇〇〜三〇〇貫文の土地が幕府から寄進されたが、寄進が遅れる場合も多かった。神宮寺の場合、のちの寺領目録に「一宮増福名 塔の供養法供料」とあり、その要望は認められたようである(同二〇号)。また翌三年に細川清氏が守護に任じられて下向してきたさいには、彼はしばらく神宮寺に逗留している(「守護職次第」)。しかも国分寺・常満保・小浜八幡宮供僧職への神宮寺僧補任が確認できるのは、十四世紀中ごろ以後のことであるし、一宮の宜一族が神宮寺に入寺するのは、ほぼ鎌倉末期のことである(資9 若狭彦神社文書二号)。康正三年(一四五七)に室町幕府の安堵を受けた寺領目録では、三町六段の田畠のほかに国分寺熊丸名・一宮増福名を領有しており(資9 神宮寺文書二〇号)、文永段階の寺領三段二四〇歩とは大きな隔たりがある。
 こうして明通寺と神宮寺は発展していったが、この両寺が再び衝突したのが明応七年(一四九八)の座席相論である(資9 明通寺文書一〇四・一〇五号)。この年、神宮寺の修造のために若狭の主要な顕密寺院が小浜に集まって千部経を読誦して勧進を行なったが、そのさい神宮寺は明通寺と第一座をめぐって相論している。これは戦国期若狭の国祈体制のなかで、どの寺院が首位を占めるのかの争いでもあった。
 明通寺は南北朝内乱のなかで外護者の地頭多伊良氏が失脚するが、武田氏の時期になると若狭第一の寺格を誇るようになる。寛正三年(一四六二)には諸寺に先んじて武田信賢の祈願所にされたし、武田信栄(一四四一年没)や信親(一四八五年没)・国信(一四九〇年没)の焼香も首位であった(同一一八号)。このように守護が公役として実施し、惣国の衆徒が参加する儀式の場では、明通寺が第一座を占めてきた。それに対し神宮寺は、「近年の富貴」を背景に異論を唱えた。武田氏奉行人は一度は明通寺側の主張を認めたが、神宮寺側が越訴して、結局「各番の儀」をもって行なえと裁定した(同一〇六号)。この意味は取りにくいが、その前段で「双方とも第一座と主張しているが、従来どこが第一かの決まりはなく、両寺が導師を勤めてきた」と述べていること、またこののち永正七年(一五一〇)の遠敷郡妙楽寺千部経では神宮寺が第一座、遠敷郡羽賀寺が次座を勤めている事実からすれば(資9 羽賀寺文書二七号)、両寺交替で第一座を勤めるというのが結論だろう。そして座席相論からまもない永正五年、神宮寺は明通寺についで二番目の武田氏祈願所となっている(資9 神宮寺文書二六号)。こうして神宮寺は明通寺とともに、若狭の国祈体制の頂点に並び立ったのである。
 なおこの座席相論では、鎌倉期の国祈の中核であった国分寺や常満保が出てこない。しかしこれらの供僧職は神宮寺・妙楽寺・明通寺・谷田寺など他寺院の僧侶が保持しており、寺院とはいってもかなり特殊である。ちなみに東寺や六勝寺では、その寺院出身の寺僧が供僧になることはなく、常に外部の有力寺院や門跡から供僧を受け入れていたが、国分寺なども同じ形をとっていたのではないかと思われる。これらは国衙や守護が国内の有力顕密寺社を再編・結集する舞台であって、それ自体は自立した存在ではなかった。



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