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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     四 城下町の人々のくらし
      宗教生活
 朝倉氏は代々五山派の一つである曹洞宗宏智派に帰依し、宏智派は足羽郡安居の弘祥寺開山別源円旨の塔頭である京都建仁寺洞春庵を拠点として発展した(六章二節二参照)。朝倉孝景(英林)はこのほかに永平寺門派にも交わり、また臨済宗の一休宗純を尊重した。このように、主として禅宗の諸派が当主一族の公式宗教として重んじられた。また朝倉氏の氏神は赤淵大明神で、前述のように一乗谷では朝倉館内と赤淵地区の山上、それから山城にその社が祀られていた。もちろん伊勢・熊野・八幡社などの有力神社も崇拝されたが、その背景にはこれらの宗教を広めた御師(特定の社寺に所属し参詣者をその社寺に誘導して祈・宿泊などの世話をする者)たちの強い働きかけもあった(資2 熊野那智大社文書一〜一一号、古文書集一・二号)。
 一方、家臣やその他の一乗谷の住人たちの宗教生活は、やや異なる様相をもっていたようである。一乗谷の周辺には三〇〇〇点に及ぶ石塔・石仏が確認されている。それらは城戸の内には概して少なく、上城戸や下城戸の外にあった最勝寺・法蔵寺・盛源寺・極楽寺・西山光照寺など天台真盛派の寺院のあったところに集中している。年若き朝倉貞景も真盛に帰依したが、朝倉氏の当主一族に直接関係する石塔・石仏はむしろ少なく、十六世紀代に一乗谷の住人たちの間に爆発的に天台真盛派が広まっていったことがわかる。こうした石塔・石仏のなかには個人の法名が刻まれているものがかなりあり、逆修(生存中にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行なうこと)のためのものもあるが、その大部分は故人を供養する墓石とみられている。この時期は全国的にみても個人墓石の多くなる時期であるが、一乗谷でも武士やその家族に故人供養も重んじる天台真盛派や浄土宗などの諸宗派が受け入れられていた。
写真267 サイゴージ跡(一乗谷朝倉氏遺跡)

写真267 サイゴージ跡(一乗谷朝倉氏遺跡)

 また出土遺物には密教法具の火舎の蓋・花瓶・六器・仏餉器などがあり、相変わらず天台・真言系の修法も行なわれていた(資13 図版六一二)。城戸の内にも寺院跡があり、赤淵・奥間野地区の山際の部分には大区画の寺院が並んでいるのが確認された。なかでも「サイゴージ」と伝承されるところでは、土塁と門・建物跡など完全な寺院跡が明瞭に検出された(写真267)。東西四〇メートル、南北三〇メートルほどの敷地に、一一・五メートル四方の同じくらいの大きさの建物が二棟並んでおり、これらの建物の裏の土塁のきわには二、三段の石塔・石仏を並べるための階段状の遺構があり、卒塔婆や石仏・供養板碑などが出土した。その南隣にも大きな寺院跡があり、ここでは子供を埋葬した墓地が確認されている(資13 図版五九九)。この曲物の棺を年輪年代測定した結果、永禄元年以降の朝倉氏の最末期のものであることがわかった。墓地の近くの大型石積施設のなかからは宗教関係の木製品が多く出土し、位牌や卒塔婆が良好な状態で発見された。
写真268 板塔婆(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

写真268 板塔婆(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

 一方、墓地のほとりでは柿経の束がみつかった。柿経とは、幅三センチメートル、長さ三〇センチメートルほどの大きさの非常に薄い板に経文を書いたもので、全巻を一日で書写供養する頓写経とみられている。一乗谷では法華経を記した柿経が多く出土しており、「南無妙法蓮華経」と題目のみが書かれた笹塔婆もあった。そして板塔婆を並べて釘で打ちつけて固定したものなども出土しており(写真268)、当時の墓地における追善供養の具体相が明らかになる。これらの寺院は法華宗系の色あいが濃いとみられているが、これもまた故人供養の性格の強いものだった。
 右のように、一乗谷の住人たちの宗教生活は故人供養を重んじるものであったことが注意されるが、下城戸の外の足羽川を少しさかのぼった武者野遺跡には当時の火葬場の跡も確認されており、城下町の外縁部にこうした施設があって、人生の終焉を迎えた一乗谷の住人たちの亡骸が荼毘に付されたことがわかる。実際、天文五年三月に浄土宗知恩寺派の西方寺大衆は一乗谷内に三昧精舎を建立することを申請してその勅許を得ており、葬送に積極的に関与する寺院のあったことも知られる(資2 東山御文庫記録三〇号、『御湯殿上日記』天文三年三月六日条)。



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