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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     四 城下町の人々のくらし
      知識人と庶民
写真266 「庭訓往来」写真本断簡(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

写真266 「庭訓往来」写本断簡(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

 一乗谷の城下町には武士のほかにも僧侶・神官・職人・商人、また女性や子供などさまざまな人びとがいた。かなりの知識人もいた。吉野本地区の一軒の屋敷から中国の医薬書『湯液本草』の写本の断片が出土している。この屋敷は一五〇坪ほどの敷地に土塁や門・平庭などをそなえた立派なもので、元代の青白磁梅瓶や青磁盤など中国製陶磁器の優品や片口鉢・乳鉢・匙などが同時に出土しており、裕福な医者ではないかと想定されている。『湯液本草』は十三世紀半ばに成立した実用的な漢方薬の本で、のちの明代に熊宗立が刊行した『東垣十書』という医学叢書に収められて流布した。一乗谷出土の写本もこの明刊本を写したものである。朝倉孝景は天文五年(一五三六)に谷野一栢に命じて同じく熊宗立の編集した医学書『八十一難経』を校正出版させており、明医学の影響が強い。一栢は易学や暦学にも通じて特異な学才を発揮し、その周囲には建仁寺の月舟寿桂や公家の清原宣賢など最高の学者たちが集まり、彼らはいずれもたびたび一乗谷に下向して滞在している。
 一乗谷の武士や僧侶たちも、清原宣賢の漢籍や史書の講読に参加するなど強い学問要求をもっていた。そして雄渾な筆跡の木簡、石硯、銅製や焼物の水滴、油煙墨などの出土品は、一乗谷の知識層の幅のひろがりを示している(資13 図版六〇九)。また上城戸の外から、中世の代表的教科書である『庭訓往来』の写本の断片が出土していることも注目される。戦国期に敦賀郡の江良浦でも旅僧がいろは字や手習を教えているが(資8 刀根春次郎家文書一三号)、一乗谷でも『庭訓往来』を教材として文字の教育がなされていた。武士たちの師となるような知識人もたくさんいた。
図68 渡し金(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

図68 渡し金(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

 また、一乗谷には女性と子供がかなり生活していたらしい。化粧具関係では円形の小型銅鏡、目の細かい梳櫛と荒い解櫛、毛抜、簪などが出土している(資13 図版六〇六)。お歯黒も既婚の女性の間で普及していた(『日欧文化比較』第二章、『日本王国記』第一章)。お歯黒壷といわれる独特の越前焼壷や小型の銅提子、精巧な文様がつけられた渡し金(図68)などが出土しており、それが裏付けられる。また紅皿も出ている。下駄も女性や子供用の小さなものが多い。石塔・石仏の法名をみても、女性と子供のものがかなり多い。このように女姓や子供が多いことから戦国の世の常として人質としての姿が思い浮かぶだろうが、彼女らの生活水準も相当高かったようである。
 彼らの日常の暮らしがどのようなものであったかはっきりしないが、羽子板や独楽が出土しており、子供たちは生き生きと遊んでいた。羽子板は胡鬼板ともよばれ正月に子供が遊ぶのに使うもので(『日葡辞書』)、独楽もまた子供の遊び道具である。また朝倉館の堀からは多数の将棋の駒が出土しており、双六の采や駒石も武家屋敷や町屋などから出ているので、盤上の遊びも大人たちの間で楽しまれていた(資13 図版六一〇)。
 一乗谷には多数の町屋があり、ここには職人・商人たちが暮らしていた(資13 図版五九六・五九七)。このなかには念珠挽・鋳物師・桧物師・紺屋など出土遺物によって職業のわかるものもあり(資13 図版六一四)、具足や弓・矢・鉄砲・刀などの武器・武具をはじめとして、そのほか多様な物資が武士たちの生活を充足するために供給された(資4 勝授寺文書二一号)。町屋は小規模なものが多いが、作業場と職人一家数人が寝起きする場所は確保されており、こういったところで暮らした一乗谷の庶民層の存在も認められる。なお農民・漁民は食料を運んでやってきたであろうが、一乗谷に定住していたとは考えられない。
 職人・商人の日々のくらしに必須の銭についてみてみると、その出土状況は、一次の発掘調査につき数十枚から二、三〇〇枚程度みつかることが多い。町屋の道路に面した溝や屋敷の溝などから数枚出土する例が割合に多く、小規模な商取引に銭がよく使われたようである。さし銭もみつかっており、一緡九四・九五・九七枚などの例が知られる。銭が大量に出土した例として三七八四枚と一万六五九四枚の二例があり、それぞれ床下の穴と井戸底から発見され、その貯蔵目的は未詳だが、すでに流通手段としては使用されなくなっており、これは庶民の日常的経済生活とは直接関係のない性格のものであろう。また、「一石之内五斗上」などと書かれた付札が奥間野地区の町屋の溝から出土しており、また阿波賀の蔵に年貢米が収納され代銭に換算されて綿が買い付けられるなど(資2 真珠庵文書一二二号)、銭や米・綿をめぐる大規模な経済活動もみられた。



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