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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     四 城下町の人々のくらし
      朝倉館
写真263 朝倉館(復原模型)

写真263 朝倉館(復原模型)

 一乗谷で最大の屋敷が朝倉館である。遺跡のなかで最初に全面的に発掘され、種々の遺構が極めて良好な状態で出土し、その後の特別史跡指定や発掘整備事業のきっかけともなった。検出された遺構をもとにしてほぼ全面的に復原考証がなされている。朝倉館は約一町(約一〇九メートル)四方の規模をもち、三方を堀と土塁・屏で囲まれている。その内部には一〇数棟の大規模な礎石建物が並び、大名としての格式と権勢を十分に表わしている。まずこの屋敷の様子を紹介することにより、そのなかで営まれた武士たちのくらしぶりをうかがおう。写真263の手前の門が正式な門で御門(1)といわれる。この門から入ると右手は広場状になっており、左手の屏のなかには厩がある。大きな厩で七頭の馬をつなぐ場所があり七間厩(2)とよばれる。御門からまっすぐ入っていくと、唐破風をつけた遠侍(3)がある。ここには取次役の侍が詰めており、贈答品の受取などもなされる。朝倉館の正式な玄関でもある。その左手につながる切妻の長い建物は侍たちの控所である宿直屋(4)で、内部に台所も付いていた。
 遠侍の右奥にあり、やはり唐破風のついた入母屋の屋根がみえる大きな建物が、館内の表向き(接客用)の建物の中心となる主殿(5)である。主殿の右手は白洲の庭になっており、庭上とよばれた。この主殿で足利義昭御成り(訪問)のさいに儀式的な献盃の作法である式三献が行なわれ、庭上に献上の馬を入れて義昭にみせた。このとき義昭の近習も庭上にひかえたが、義景はそこが湿っていたので縁側の下の石の上に居たという(「朝倉義景亭御成記」)。主殿の左にみえる朝倉館のなかで最大の入母屋造りの建物が常御殿(6)である。当主朝倉義景の日常のすまいであり、政務の場、同時に大規模な宴会の場でもあった。その主室が奥ノ座十二間という二四畳敷きの広間で、そのほか沓形の座敷や書院なども付属していた。主殿の奥には泉殿(7)が庭園の池の隣にあった。庭園は上から導水路により滝の水を流す立派なもので、数寄屋(茶屋)も設けられていた。それらの建物と常御殿とで囲われた四角い中庭には花壇と平庭があった。こうした建物が、館内部の表向きの建物の主なものである。
 館内部の左手奥には内向きの建物が並んでいた。常御殿の左隣にある煙出しのついた大きな建物は台所(8)で、大きな囲炉裏が二つしつらえてあった。その奥には女房たちの居所があった。また常御殿のうしろには持仏堂(9)や湯殿が設けられ、その左手には大きな石を敷きつめた土台をもつ蔵(10)があった。写真左手の門は裏の御門(11)とよばれ、当主や侍たちの日常的な出入口だった。門を入るとすぐ五間厩(12)があり、その手前には朝倉氏の氏神である赤淵神社を祀る小祠があった。写真左手一番奥の建物は離座敷(13)である。
 正面の御門の右手の土塁のきわは射場になっており、その右手の隅櫓の下には的をのせる台の基礎である(14)が設けられ、ここで弓の練習をした。その隣には武者溜と武器蔵(15)があった。右端の門は中門(16)とよばれ、この館の右隣にある新御殿という館と高い橋で連絡されている。
 遺構と文献史料にもとづいてこのようにかなり詳しく様子がうかがえるのであるが、この朝倉館のなかで生活していた人びとについては堀のなかから出土した付札木簡が有力な手がかりとなった。「御屋形様」とある付札や、表に「御形御番部屋」(御形は義景の嫡男阿君をさすとみられる)、裏に「永禄十年正月十三日三番衆」とある付札、そして義景の最後の側室斎藤氏の女房名の「少将」と記した付札が八枚も出土していること、年号を記したものがいずれも永禄年間(一五五八〜七〇)のものであったことなどからみて、この館の当主が朝倉義景であったことが実証された。
 これらの遺構は天正元年八月に滅亡した朝倉義景の居館の最終段階を示すものであり、これほど完全に建物跡が残っている戦国大名の館は他に例がない。



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