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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     四 城下町の人々のくらし
      衣食住
 一乗谷は朝倉氏滅亡ののち引き続いて守護代前波長俊の居城となったが、前波氏も一揆により滅び、やがて一向一揆が越前を制圧した。織田信長は天正三年(一五七五)八月に一揆鎮圧のため越前に出陣し敦賀から府中に入り、八月二十三日に一乗谷へ陣を移し、二十八日には豊原寺へ陣替した(『信長公記』巻八、資3山田竜治家文書一号)。このときに短期間ではあるが信長の本陣となったのが一乗谷の城郭としての最後の所見であり、そののち城下町は柴田勝家の北庄へと移された。一乗谷は長い都市としての歴史を終え、近世農村へと変わっていった。
 こうした事情により一乗谷は、近世都市としての再開発がなされず、戦国城下町の全体を今によく伝えている。そして昭和四十六年(一九七一)に国指定の特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」と名付けられて発掘・整備が続けられ、戦国城下町としてはわが国随一の大規模遺跡として知られている(資13 本文編参照)。ここでは文献史料と考古資料を合わせ考えることにより、一乗谷を中心とする中世後期の都市生活の若干の様相についてふれる。この時期になると関連史料は必ずしも少なくないが、日常生活の実態は意外につかみにくいところがある。そこで、戦国末期に来日した西欧人の著作に当時の日本人の生活風習の大要を記した便利なものがあるので、天正九年四月北庄に来たこともあるフロイスの『日欧文化比較』(一五八五年著)とヒロン『日本王国記』(一六一五年ごろ著)、ロドリゲス『日本教会史』第一巻(一六二〇年ごろ著)、日本イエズス会によって刊行された『日葡辞書』(一六〇三年)などを主に参照して以下叙述する。
  まず男子の衣服について、フロイスは「日本人は一年に三回替える。夏帷子、秋袷、冬着物」と述べている(『日欧文化比較』第一章)。これは日本人が季節に応じて衣替えしたことを述べているが、具体的には単・袷・綿入れという三種類の縫製について指摘したものである(『日本教会史』第一六章)。若狭の三方郡御賀尾浦(三方町神子)の刀であり武士でもあった大音氏の戦国期の資財目録には、衣服として上下(裃)二具・袴肩衣二具・四幅袴肩衣一具・帷子二つ・小袖二つ・布子二つがみえる(資8 大音正和家文書二六三号)。この裃や袴肩衣などは室町期に発達した上下一組の武士の上着である。小袖と布子はいずれも綿入れの一種で、絹製のものを小袖といい木綿製のものを布子といった。値段には大きな差があり、越前の例では小袖が一着三貫文で、遠江の例であるが布子は一着六〇〇文だった(資7 白山神社文書一号、資4 龍澤寺文書四三号)。
 『朝倉英林壁書』には、「朝倉名字の中を始め、年始の出仕の上着は布子たるべし(下略)」という一条項がある。衣服の規制は他の戦国大名でもみえ、例えば関東の結城氏では家中に皮袴や木綿肩衣の着用を禁止している条項があり、これは奢侈生活を戒める趣旨で設けられた(『結城氏新法度』六三条)。年始に布子で出仕せよという朝倉氏の規定はやや極端にも思われるが、朝倉孝景は立烏帽子・狩衣といった高価な装束で「国司」と称して国人たちの前に立ち現われて反感をかった苦い経験もあり(『雑事記』文明三年八月五日条)、そうした自分の経験にもとづく規定ではないかと思われる。そしてこうした条文から類推すると、当時の越前の地侍たちは冬にたっぷりと絹綿の詰められた布子を着て生活していたことがうかがわれる。
 衣服そのものは遺物としては残りにくく、また流行や時代変遷も著しいので、なかなかその実態をつかみにくい。ただ一乗谷からは紡錘車・糸巻・砧・鋏・縫針などが出土しているので、簡単な衣料生産や裁縫が行なわれていたことが確認される(資13 図版六一五)。
 次に履物については、日本人は貴賎を問わず草履を履き、雨のときには裸足か下駄を履いたとされる(『日欧文化比較』第一章)。草履は遺物として大変残りにくいが、一乗谷では一点だけ確認されている。下駄類は多様なものが出土しており(資13 図版六〇六)、数も多く日常的な履物として普及していたらしい。
写真262 曲物(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

写真262 曲物(一乗谷朝倉氏遺跡出土)

 食生活については比較的豊富に史料が残されている。遺物では壷・甕・摺鉢・鉢・鉄鍋・包丁・石臼といった台所用具や、椀皿・折敷などの食膳具が大量に出土している(資13 図版六〇三・六〇四)。台所用具としては、フロイスは鉄鍋の使用と金輪(五徳)の三脚を上に向けて置くことに注目している(『日欧文化比較』第六章)。若狭では、十四世紀中ごろの女性の小百姓の財産目録に鍋大小三・金輪二、十五世紀中ごろの名主の追捕物の注文に鍋大小三・金輪一というふうに鍋と金輪のセットが普及していたことも知られる(し函一七、ハ函二三九)。一乗谷では土鍋や石鍋が少ないので、北陸では中世後期に鉄鍋と金輪の使用が一般的だったのだろう。ただ小さい土釜が出土しており、なにか一人分の料理を作るさいに使用することもあったのではないかと思われる。朝倉館からは越前焼の径二尺(約六〇センチメートル)の大捏鉢が二個体出土しており、町屋の遺構のある瓢町からも径二尺の笏谷石製大捏鉢が出土している。このように大きな台所用具は大量の料理を一度に作っていたことを示し、城下町の武士や町人たちの食事の準備の様子をうかがわせる。
 次に、食膳具については漆組椀と漆膳が注目されている(『日欧文化比較』第六章、『日本王国記』第一章九節)。当時の越前・若狭の上層の人びとが多数の漆器の食膳具を所有していたこと、青磁・白磁・染付などの中国製陶磁器が大量に輸入され実際に使用されていたこと、安価な御器椀も一般に普及していたことなどが知られる。
 日本人の家屋について、ロドリゲスは以下の四種類を挙げている(『日本教会史』第一二章一節)。第一は領主・公家貴族・武士貴族・富豪の家屋や御殿、第二は都市や聚落の道路に面した家々、第三は農民・庶民の家屋、第四は寺院である。一乗谷においても朝倉館のような最上層の当主の館、重臣の武家屋敷、街路に面した小区画の町屋、寺院などがあり、農民の住宅以外の多様な家屋がみられ、当時の都市生活の具体相をうかがうのに十分な資料を提供している。例えばフロイスは、「われわれの家は地下に基礎を築く。日本のは、それぞれの柱の下に一つの石を置く。その石は地上に置かれる」と述べている(『日欧文化比較』第一一章)。礎石建物が多かったことに注目しているわけであるが、一乗谷では主要な建物の大部分がそうである。しかしこれは決して中世の住宅全般がそうであったのではなく、戦国期の都市建築について述べたものであろう。一般集落については、例えば福井市の曾万布遺跡では鎌倉期から室町期の建物が多く検出されているが、すべて掘立柱の建物だった(資13 図版六七一)。次に屋根については瓦葺が少なく板や藁で葺かれていること、その屋根の上に石や材木・竹を載せて風にそなえたことなどが指摘されている(『日欧文化比較』第一一章)。一乗谷でも瓦は出土しておらず、このことが確かめられる。当時の屋根葺き用の板材は榑とよばれ、大量に流通し消費された(本章一節一参照)。



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