目次へ  前ページへ  次ページへ


第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     三 城下町一乗谷の成立
      一乗谷の発展と整備
 前述のように、一乗谷の歴史的背景はこれまでの通説よりはるかにさかのぼるものであるが、孝景・氏景父子の活躍した文明年間(一四六九〜八七)が一乗谷の飛躍的発展の時期であることはいうまでもない。そののちには、石塔・石仏の紀年銘の分析から永正年間(一五〇四〜二一)初めと天文年間(一五三二〜五五)初めにも画期があったことが指摘されている(資13 本文編参照)。また発掘調査の所見からも、大規模で計画的な町割が実施された時期が城下町発展の大きな画期ととらえられる。その絶対年は未詳であるが、一乗谷の都市的発展にはごく大雑把にみて十六世紀初めの貞景の壮年期に一つの画期があり、孝景の代の後半から義景の代に全盛期を迎えたものとみられる。確かに貞景の代になると朝倉氏の経済力も充実し、千貫・万貫の銭を自由にすることができた(『雑事記』延徳三年五月四日条、『宣胤卿記』永正元年四月二十一日条、資2 成就院文書一号)。永正三年の北陸一向一揆の侵攻を撃退したのち、貞景は土佐光信に京中を描いた屏風を描かせて取り寄せている(『実隆公記』同年十二月二十二日条)。国力の充実により、一乗谷の大改造も可能になってきたものと思われる。
 城下町の発展をうかがううえで、その流通と消費を支えた足羽郡の阿波賀や前波の地が注目される。阿波賀は前述のように古くからの朝倉氏一族の苗字の地で、ここには本地が大和春日社と同じとされる阿波賀社があった(「宗源宣旨秘抄」)。前波にも春日社があり、この前波から足羽郡篠尾にかけての地は朝倉氏の譜代の重臣前波氏の根拠地で、その館が複数あった。この前波と阿波賀は近衛家領宇坂荘の西端部にあたり、春日社の存在なども荘園領主との関係をうかがわせる。地理的にも山地と平野部の境界として交通・交易の要地だった。また足羽郡一帯の用水である酒生用水と徳光用水の取水口にもあたっており、ここを押さえると足羽郡を制する場所でもあった。後世には前波と阿波賀の間に舟渡しがあり、また前波は足羽郡大久保を経由して大野郡方面へ向かう荷物の中継地ともされた(資7 笠松宗右衛門家文書三号)。そして前波付近には米や塩などの物資を積んだ舟が坂井郡三国湊と連絡しており、多くの建物が軒を並べたと伝えられる。阿波賀にも三比屋という名の蔵があり、足羽郡一帯の年貢米収納や取引の中心地であった(資2 真珠庵文書一二二号)。このように前波や阿波賀は一乗谷の外港として相当の整備がなされていたものと考えられる。
 また北陸道から数キロメートル東寄りにいわゆる朝倉街道が整備され、一乗谷との連絡を確保した。特に東大味から一乗谷に入る鹿俣坂は初坂道ともいわれ、大手道として石敷の道が近年まで残っていたという。また榎木坂は片上坂ともいわれ、一乗谷に布教に訪れた近江坂本西教寺の真盛はこの峠を通って上洛した(『真盛上人往生伝記』)。そして上城戸の外には東新町・西新町といった町の名が残り、浄教寺には当時町衆が形成されていた(「宗養発句付句」)。
写真261 上城戸跡(福井市城戸内町)

写真261 上城戸跡(福井市城戸内町)

 一乗谷の整備の状況を何よりも雄弁に物語るものは、発掘調査によって検出・確認された城戸の内の館や武家屋敷・町屋の整然とした町割である。まず朝倉館の背後には南陽寺から諏訪館まで朝倉一族の近親者の屋敷が並び、朝倉館の周囲にも柳馬場や犬馬場といった外郭が形成されていた。また一乗谷川を挟んで朝倉館の対岸部にあたる河合・平井地区には間口一〇〇尺(三〇メートル)の大きな武家屋敷の区画が並び、その数百メートル北に位置する赤淵・奥間野・吉野本地区では中央の南北に走る大路を挟んで一町(約一〇九メートル)単位の町割がなされ、この大路に面して町屋が細く並び、西側の山側には大寺院と武家屋敷の区画もあった。このように城戸の内でも地区ごとに町並の様子はやや異なり、大小の道と土塁などにより計画的な町割が形成されたことが知られる。また上城戸・下城戸といった巨大な土塁も本来は防禦施設として築造されたものであろうが、その内側に若干の空間を残してびっしりと町屋が並んでおり、城戸の内の高密度の都市的状況が確認される。さらに上城戸の外や安波賀地籍でも遺構は部分的ながら良好に残されており、城戸を越えて町が広がっていたことも確認される。



目次へ  前ページへ  次ページへ