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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     三 城下町一乗谷の成立
      孝景・氏景のころの一乗谷
 一乗谷の築城について具体的に示す史料は伝わっていないが、朝倉孝景の父為景の香語に「越之前州一乗城の畔にありては、菩提心の内より無量阿僧祇の金剛の楯、無量阿僧祇の忍辱の鎧、無量阿僧祇の精進の弓、無量阿僧祇の智恵の矢を渡し出し、千里の衝を折り、三軍の師を奪う。是即ち三有の垣牆を射透かし、四魔の陣塁を削るものなり」と記されており(「流水集」)、一乗谷に居城した朝倉為景の人柄と信心が武具に喩えられて述べられる。為景は宝徳二年(一四五〇)に亡くなっており、したがって十五世紀の前半のある時期、すでに一乗城が築かれていたことがわかる。こののち朝倉孝景の弟光玖が一乗に居たことも記録にみえる(『親元日記』寛正六年七月十四日条)。この時期の一乗城の施設については、寛正元年(一四六〇)二月二十一日に「阿波賀城戸口」で合戦が行なわれたことがみえる(「日下部氏朝倉系図略」)。もっとも、この史料の年号記載には錯誤が多いのであまり確実なことはわからないが、長禄合戦の前後には「阿波賀城戸口」が設けられていたと推定される。この城戸の位置および構造は詳らかでないが、一乗城の軍事施設に関わるものと考えられ、一乗谷の一方の口を閉鎖するような城戸がすでに阿波賀側に設けられていたのであろう。
写真260 一乗谷朝倉氏遺跡(国指定特別史跡)

写真260 一乗谷朝倉氏遺跡(国指定特別史跡)

 応仁・文明の乱の途中で朝倉孝景・氏景父子は東軍方につき、幕府から越前の支配権を公式に認められ、そののち朝倉氏の実力を頼って公家たちが越前へ下向するようになるとようやく一乗谷も注目され、古文書や記録に残るところとなった。このころの呼称は「朝倉城」(『雑事記』裏文書松林院兼雅書状)、「一乗朝倉城」(同 文明十二年八月三日条)、「朝倉館」(「晴富宿記」文明十一年正月十六日条)、「越前朝倉弾正左衛門館」(「雅久宿記」文明十一年八月二十一日条)などといわれている。朝倉孝景自身も「朝倉が館」と自称している。すなわち有名な『朝倉英林壁書』に「朝倉が館の外、国内□城郭を構へさせましく候、惣別分限あらん者一乗谷へ引越し、江(郷)村には代官ばかり置かるべき事」という一条がある。場所の名としては「一乗谷」と記し、それを自分の館「朝倉が館」と称している。ところで、この重臣を一乗谷に集住させるという一項目をとりあげて、この壁書自体が孝景のころのものではなく、後世に作られたものとする見方もある。しかし在地の城館が後年まで残っているのは一般の国人に築城を禁止したわけではなかったからで、この法が対象とするのは朝倉の家中に限られていたともみられる。孝景の亡くなった翌年の文明十四年閏七月三日に失火により一乗谷に大火があり、「随分の者共焼け死ぬと云々」と書き残されている(『雑事記』同年閏七月十二日条)。この記事の「随分の者共」という表現は当時の用法では単に人数の多いことをさすのではなく、「主だった人々」つまり重要な家中の者という意味であり(『日葡辞書』など)、孝景の末期から氏景のころにかけて朝倉氏の主だった家中の集住が進んでいたと思われる。この『朝倉英林壁書』には前掲の条文の前後に民政面の条項が置かれており、国内に年三回巡行使を派遣して土民百姓の評判を調べさせることや、神社・仏閣や町屋などを当主が巡検するさいの心構えについてふれられている。後者については主として一乗谷について述べられているものと考えられ、孝景の晩年には一乗谷に「伽藍・仏閣并町屋」も多くあったことがうかがえる。こうした一連の条文は、一乗谷の城下町建設にあたった朝倉孝景自身の経験から発せられた言葉であったと考えられる。
 一乗谷の城下町の成立についてあまり具体的なことはわからないが、孝景の晩年から氏景のころにかけて早くも都の公家や「文化人」たちがたびたび一乗谷に下向して滞在していることも知られる。



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