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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
     三 城下町一乗谷の成立
      朝倉氏の根拠地
図66 南北朝期の朝倉氏の主な勢力基盤

図66 南北朝期の朝倉氏の主な勢力基盤

 かつては、文明三年(一四七一)に朝倉孝景が足羽郡一乗谷に築城し吉田郡黒丸城から移ったという「朝倉始末記」にみえる俗説が信じられていたが、近年新史料も紹介され、以下のように初期の朝倉氏について具体的にとらえることができるようになった。朝倉広景が但馬から越前に入国したのは建武四年(一三三七)のこととされるが、その六年目の康永元年(一三四二)には安居に氏寺の弘祥寺を創建している。この安居の地は足羽郡足羽荘の西隣に位置し、一部丹生郡にもかかっている。日野川・志津川・未更毛川・足羽川が次つぎと合流する要地である。また広景は北荘(足羽荘)内正吉名と足羽郡江守内二郎丸名の一部を買得して御願寺の常在院に寄進し、さらに今立郡鯖江の両名と北荘弘安名の田畠を孫の紫岩如琳に譲っている(「朝倉家伝記」)。そして広景は北荘も重視して貞和三年(一三四七)に北荘神明社を造営したという。これらの氏寺や崇敬の対象となった寺社、買得・寄進地の所在地が当時の朝倉氏の勢力下にあったことは十分に考えられることであろう。次に広景の子の高景は、延文二年(一三五七)には足羽荘預所職を、貞治五年(一三六六)には足羽郡の宇坂荘・東郷荘と坂井郡の棗荘・坂南本郷・木部島および吉田郡の河南下郷・中野郷の七つの荘郷地頭職をそれぞれ勲功の賞として充行われている(「朝倉家記」所収文書)。その後の経緯からみてこれらの所領は朝倉氏の根本的な所領とみてさしつかえない。また高景は、今立郡鳥羽・足羽郡山内および坂井郡春近・布施田・浜三分一地子なども弘祥寺に寄進している。
 右に広景・高景父子と直接関係する地名や所領を列挙したが、それらの地の分布は全体としてあるまとまりをもっているようである。すなわち郡名でいえば足羽郡の全体、吉田郡の西部、坂井郡の南部などを中心としており、ちょうど現在の福井市の平野部全体とその近隣の地若干を含んでいる。これ以外の場所にはこの時期あまり関係が見出せず、朝倉氏が越前入国のごく初期から国内のこうした地域に根ざそうとしていた様子がうかがえる。この地は足羽川・日野川・九頭竜川という越前の三大河川の合流するところで交通上の要地であり、越前北部の一つのよくまとまった地域でもあった。
 朝倉氏に伝えられた伝説によれば、貞治五年に斯波高経父子が京都を追われて越前に逃げ下ったとき朝倉高景・氏景父子もそれぞれ下向し、朝倉父子が互いに落ち合ってその攻略について内談したのは一乗であったといわれ、のちに氏景はその一乗に熊野社を勧請したという。氏景の弟茂景は阿波賀を苗字とし、氏景の庶子の正景・景康兄弟はそれぞれ東郷・中島を苗字とした。そして彼ら兄弟の世代のころ、東郷と阿波賀の間に位置する足羽郡安原荘の代官職を朝倉氏一族の女子とみられる「南陽寺比丘尼」が勤めている(『看聞日記』永享三年十月七日条)。この南陽寺は氏景の妻であった天心清祐大姉が建立した寺で、一乗谷の朝倉館の北東にその跡が残っている。こうした断片的な状況からみても、十四世紀末から十五世紀初めにかけて、朝倉氏は前述した地域のうち中世の足羽南郡の東部を次第に根拠地に確定してきたことがうかがえよう。朝倉氏が一乗谷を根拠地とした権原はおそらく朝倉高景の宇坂荘地頭職の領有にあり、代々朝倉氏は早くから地頭請の成立している近衛家領宇坂荘の地頭・代官を勤めた。そして朝倉氏の庶流は、前述の地のほかに北荘や鳥羽などにも広まっていった。
 朝倉氏は越前入国以後はほとんど本国但馬との所領関係がみられず、越前以外の所領所職もごく少なかった。甲斐氏のように越前の守護支配機構に依拠することのできなかった朝倉氏は、確実な在地の勢力地盤を必要とした。そして前述した範囲のなかでも、福井平野の東南端の宇坂荘一乗谷に早くから主たる根拠地を置いていたものと考えられる。従来戦国期の一〇〇年間しか注目されていなかった一乗谷は、はるかに古い歴史的前提をもっている。



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